イシノラボ/マスターズ店長の連載

第1弾 日本オーディオ史

第2回 真空管の退潮とICの出現、そして、・・・

1966年になって、東芝の真空管事業部からの呼び出しがありました。MJライターの金田幸之助さんと同席して、はなしを聞くと、東芝は近い将来、オーディオ用真空管製造をやめたいということでした。

1955〜1964年くらいまでは、オーディオ用真空管は非常によく売れて、具体的には6BM8、6BQ5、6L6GC、6GB8、12AX7、12AU7、6AQ8がメイン品種であったそうです。(マニア用には6GA4、NECでは6RA8,6CA10など、)テレビもTR化が進んでいましたが、カラーTVの普及が予測されていたのでTV用真空管はまだ採算に乗ったようです。

二人で、機種を絞れば、まだまだ売れると力説しましたが、まもなく、東芝はオーディオ用真空管の製造はやめる方向になりました。日立、松下もその流れに乗りました。NECは最後まで、頑張りましたが、オーディオセットのアンプが真空管からトランジスタに切り替わるにつれ、生産を縮小してしていきました。所詮、オーディオ・アマチュアの力は大メーカーにはとても太刀打ちできないこと思い知らされました。

真空管に比べて、トランジスタは毎月新機種めじろ押しで技術誌に紹介されていました。

その頃のアンプに対する私の考えは、ひずみが小さくなれば、良い音になるに違いないと思っていました。やはり、音質を左右するのはスピーカーだ!という気持ちが大きかったのです。当時のアンプのひずみを測定してみると、0.1%を切ることは難関でした。海外のアンプもひずみを下げることに全力を傾注していました。今から考えると、測定器にも問題があったようで、オーディオ発振器にしても、発振器自体のひずみがけっこうあって、0.5%を切る発振器は高価だったし、前回お話した、超高価なヒューレットのオーディオアナライザーにしても、フル・スケールで0.1%ひずみであったので、せいぜい0.05%くらいの測定結果くらいしか得られなかったのでした。先日、古い真空管アンプをハム成分をカットして、1Vくらいのパワー(0.1W%くらい)で測定すると、ひずみ率0.03%を示しました。当然パワーを上げると0.5%以上に増えてしまいますが、家庭内で聴く平均的レベルはスピカーの効率が88dbくらいあれば、せいぜい2Vくらいの出力です。

1966年頃、タムラ中枢の方が小型トランジスタみたいな小さいものをアメリカから持ち帰りました。税関ではポッケに入れて通過したらしい。何でもインテグレーテッド・サーキットと呼び、画期的なデバイスらしく、アメリカでは大評判と言う。さっそく、タムラ研究開発部で中身の調査に入った。ケースを開けてみて、眺めても良く分からない。すぐ、顕微鏡でウエハーを見ると、回路パターンが見えてきました。

このものはオぺレーショナル・アンプというらしい。何に使うのか?測定器用?医療機械?、それにテキサス・インスツルメントというブランドは何?わからないことづくし、ともかく、これから、電子機器の革命が起こる気配は感じました。さっそく、タムラではトランスとICとの組み合わせでパテントを出しました。防衛的なパテントでありましたが、企業として迅速なアクションでした。そのうち、オペレーショナル・アンプ(以後OPアンプと呼ぶ)の回路構成は初段が差動回路構成であることが分かってきました。まだ、その頃のトランスジスタアンプはドライバー段回路にブートストラップ回路(デジタルアンプで35年ぶりに使われるようになってきたが、)、終段にSEPPとそれなりに斬新でありましたが、初段回路は真空管アンプ回路を置き換えたようなものでした。オーディオアンプにおいて、TR化早かったのはLUXで小型プリアンプを発売、SONYは自社開発のシリコンTRを搭載したプリメインアンプ、トリオ(現ケンウッド)は小型TRアンプを発売して今後、TRアンプに全面的に切り替えるとアナウンスしました。

わたしはオーディオが活発になりそうなこの時期、タムラも民生オーディオ市場に参入しないかな!と願っていました。しかし、セットメーカーにトランスを納めている立場で、ライバル商品を作ることは出来ないという見解で、このはなしは収まりました。そんなこともあって、わたしは母校に戻ることにしました。母校では川西氏が研究室の助手と活躍していました。戻ってみると、丁度、16chの脳波計が入ってきて、微小信号を増幅する(140dbくらい増幅しないと、波形にならない。)難しさを体験しました。そのころは真空管(ニュービスタ管)でやっていたのです。ずいぶん、実験台になって脳波測定はしました。条件として、嫌な音を聴かされると、確かにα波は出にくくなります。それにしても頭蓋骨というシールドケースの外から、脳内部を電気信号から探るという考え方には無理があり、脳波測定で100%診断が出来たのは、癲癇という病気くらいでした。癲癇という病気はアンプに例えれば、脳が発振しているようなものですから、頭蓋骨の外からでも何とか分かったのです。アンプも発振していればオシロスコープで見ればすぐ見えるし、聴感でも何となく気配でわかります。これはずっとあとで述べますが、フォーリングダウン現象がおきていて、分かるのです。

時代は少し遡ります。1956年頃から、ロンドンレコード(DECCA)はウイーンフィルを起用し、レコーディング・ロケーションとしてゾフィエンザール(残念なことに数年前、火災に合って焼失しました。)を本拠地として、活発なレコーディング活動を始めました。主要スタッフはまだ30歳前半のチームであのジョン・カルショウ(独身50歳代で急死してしまいました。)がすべてを取り仕切っていました。ウイーン国立歌劇場監督に就任したばかりのカラヤン、楽壇ではまだ無名のゲオルク・ショルティを起用して、イタリアオペラ、有名交響曲、管弦楽曲、ワグナーの楽劇を次々と録音していました。

DECCAレコードはキングレコードと契約していました。他のレコード会社ではマスターテープのコピー(1回ダビング)を送ってきたので、それからカッテングして原盤、を作り、プレスしていました。DECCAでは、原盤を送ってきたそうです。従って、ダビングしないだけ分、S/N比が良かったし、音質もECCA社のものに近かったと思います。1970年頃になって、東芝EMIの社長がEMIでカッティングの現場を見て、多くのノウハウがあるのに驚き、さっそく、川口にあったカッテングルームにミクサーを送り込んだそうです。私もアメリカ出張の折、モータウンレーベルのカットテング現場見学で、さまざまなテクニックを入れ込んでいるのに驚きました。少なくとも、日本盤よりガッツで、音圧レベルが高かったと思います。カッティングにおける日米サウンドの違いはカッティング名人手塚氏に最近うかがったところ、やはり、感性、目指すところが違っていたと話してくれました。

ともかく、隆盛になろうとする日本のオーディオ界にDECCAのサウンドは大きな影響を与えました。当時のレコーディングの様子はBBCが製作した90分のTV放送向けの内容をLDを見ると、良く分かります。(ワグナー”神々のたそがれ”の録音セッションから、モノラルですが、音声はすべてDECCAから提供されているので、歯切れの良いサウンドが聴けますし、ショルティ、カルショウ、ウイーンフィル、ソリストの面々がふんだんに出てきます。そのうちにDVD化されるでしょう。)

マイクは主としてノイマンマイクを12本くらい使い、ミクシングにはステレオ効果が上がるように細部に渡ってのフェーダーコントロールで常にシャープな音像定位とサウンドを採ろうとしています。モニタースピーカはタンノイのカンタベリーを使っていたと書かれています。LDで見るとテープマシンはSTUDERではなさそうですが、テンション・サーボはついているようです。

このころは私はまだ、学生で川西氏宅に泊まらせていただき、互いにレコードを持ち寄り、聴き合いました。このようなDECCAサウンドを高く評価して、ハードメーカーに影響を与えたのは故池田氏、高城氏で、ホーンスピーカが一番というイメージを植え付けました。そのおかげもあって、YL音響は絶対的な名声を得ました。YL音響はその後、吉村氏の死去により、ゴトーユニット、エール音響、オンケンと3社に分岐し、いまなお、根強い支持があります。

次回はオーディオメーカーに入社、そこから見たオーディオメーカーの動きなどをお伝えしたいと思います。なにぶんにも古いことなので、思い違いも多々あると思いますので、ご指摘いただければありがたいです。


2006年4月15日掲載


この記事は、2005年9月24日に”WestRiver(ウエストリバーアンプ)”のサイトに投稿した記事をベースに書き直したものです。