1969年だったと思うが、科学技術館で開催されたオーディオフェアでサンスイはクォドラフォニック・シンセサイザー、QS−1なるプロセッサーを発表した。
それはリスナーを前にL/R2個、後ろ後方L/Rにさらに2個のスピーカを配置したのであった。リスナーはその配置を見てびっくり。”それでは始めましょう!ミュージック!スタート!”という司会者の言葉が終わるやいなや、ジェット機が前から後ろに轟音とともに飛び去ったのである。”あっと驚く為五郎!(ふるいギャクで申し分けない。)”とリスナーはいっせいにどよめく。次にファンファーレが四方から鳴り響く、そして観衆の拍手が後方を中心として聴こえる!このときの演出は凄いものだった。そして、QS−1は特急で商品化したので、つくりはイマイチであったが飛ぶように売れた。あわてふためいたライバル各社はQS−1を買い求めた。
サンスイがオーディオ業界を揺るがした4chステレオはこうして始まった。サンスイはこの方式をQS方式として大々的に進めることを発表した。2chステレオ音場を広げようと考えていたアイディアマンの方は開発部の援助を受け、2chステレオ情報を拡大することを考えた。それはL/Rの信号をまぜて(ブレンド)、そのオーディオ信号をマトリックス分解すると4方向の信号が出てくる。特に逆位相成分が多ければそれだけその成分は後方に回る。いわゆるマトリックス理論を採用して4ch方式を実現したのであった。後方成分に残響的成分が欲しいとしてQS−1では信号のレベルに応じて、後方チャンネルの音が光変調で変わる様になっていた。中枢の回路はモジュール化してライバルにはわかならないようにしたが、ライバル社はX線撮影して内部を突き止め、マトリックス方式らしいとわかってきた。
その頃、アメリカ人のシャイバー(ボストン交響楽団のクラリネット奏者)が4chマトリックス方式をオーディオ誌に発表した。ついで、CBS研究所ではサンスイの影響を受けて、対抗的な方式SQ方式なるものを発表した。QSvsSQと分かりにくいことになった。SQ方式はL/Rの成分はブレンドすることなく、そのままにして、逆位相成分を使って、後方出力を出そうとしたものであった。オーディオ業界は4chに明け暮れることになった。各社のセパレートステレオはみんな4ch方式になってしまった。ユーザーの方々は後方にスピーカを置くスペースがない方が多く、フロントL/Rの外側に置いた方も多かったと聞く。
そして、オーディオ業界は何とか自分の方式が有利であるという主張で(現在も方式論争は同じ!人間は同じ誤りを忘れたころにまたやりだす!戦争も忘れたころに始めだす!何かと理屈をつけては!人間はおろかな生き物です。)、方式論争となってきた。マーケットで勝てば、そうなるであろうと、サンスイではソフト業界に働きかけた。まず、サンスイ提供のFM放送番組を4chマトリックス方式とした。これは、2chで聴いても、広がりが出るので、評判は良かった。番組内容は来日アーチストのライブを4chで収録して(2chのミックス出力をフロント2ch成分として、ホールの臨場成分をリア成分とした。)
レコーダーはAMPEX440Gの1/2インチ、38cmの4ch機を使用した。わたしは当時生録に凝っていたから、レコーダー関係の仕事は喜んで、手伝った。そして、サンスイQS方式の音質に携わっていたから、研究用に良いサウンドが採れたときはダビングして貰ってきた。アニタ・オディ、スタイリステックス、などの有名ミュージシャンの音源を鮮度良く聴くことも出来た。
FM放送だけじゃ足りないというので、レコード会社にもアタックした。”銀行員で顔はぱっとしないけど、シンガーソングライターで上手い奴がいる!”とポリドールレコードから情報が入る。テープを聴いてみると、確かに、凄い才能があり、心を打つ音楽があった。”潮騒の唄”、”六月の雨”、”あいつが死んだ”など、すばらしい!芸名は小椋桂と言う。ちなみに”桂”は奥さんの名前からとっている。サンスイではこの音源でQSレコードを創り、”青春の唄”とタイトルして、販売促進用のレコードとした。(今聴いても、感激する。特に小椋桂の若いときのボーカルは現在よりも10倍くらい良い。メロディーラインも独創的)
ほかのレコード会社にもアタックして、東芝EMI、テイチク、クラウンレコード、などはある程度のアルバムにQS方式を採用してくれた。市場を制するのはソフト数であると判断して、ソフト業界への働きかけを強めた。こうなったら、海外もということで、BBCにも働きかけて、BBC研究所で検討してくれ、QS、SQ方式にエンコードしたテープ音源をサンスイに届けてくれたりして本格検討が始まった。海外レーベルにも働きかけて、B.B.キング、キャロルキングの新譜にQS方式を採用した。クラシックでは後方にトランペットを配置するベルリオーズのレクイエムとかチャイコフスキーの”1812年”などには採用された。さらにその先には映画があった。映画界にも働きかけた。ついにはロックオペラ”TOMY”にはQS方式が採用された。主演はロックバンド”ザ・フー”であった。エルトン・ジョンも出演した。試写会は有楽座を借り切っておこなわれ、パワーアンプはサンスイBAー5000(300Wx2)がBTL接続で4台使用された。わたしも関係者としてセットテングしたりして、立ち会った。凄く大きなサウンドで、参った。これに目をつけたのが、ドルビーさんで、ユダヤ人らしく、ビジネスチャンスを見つける才能は凄い。ここからドルビーサラウンドが始まったと言って良い。さすが、映画業界はせりふを大事にするのでセンターチャンネルを追加した。サンスイもここまでやればよかったが、日本企業であるし、ハードオーディオメーカーから、映画産業に乗り出すには社内風土に無理があった。
さて、今度は方式論争について述べよう。
数学的にまっとうなマトリクス方式(少なくともSQ方式より)であるQS方式に少しの数学的変更を加えて、何とかこの方式をEIAJ(電子機械工業会)でまとめておこうとする動きがあって、オーディオ各社が集まって、論議が沸騰した。QS、SQに加えて、QS方式の亜流である、QMとかQXと言うようなネーミングのマトリックス方式も発表されたりして、4ch方式は混乱してきた。
冷静に考えると、論議の中身はわずかな違いをどうするかであった。わたしも当事者のひとりに加わった。もめにもめて、サンスイは譲って、これらの方式をRM(レギュラーマトリックス)方式としてまとまることになった。毎回、EIAJでの委員会での論議は深夜まで続いた。
そうこうしているうちに、ビクターはCD−4という、高域周波数にさらに2ch信号を加えて、FMステレオ放送方式のようにパイロット信号で4ch信号を分離するもの方式を発表した。アナログレコードで実現するにはカートリッジの高域再生能力は30KHz以上でなければならなかった。CD−4のおかげで、カートリッジの高域性能が改善されるという副産物も出来た。
そうなると、マトリックス方式では再生時のセパレーションは理論的には3dBになるので、このあたりをビクターは突いてくる。マトリックス勢のQS、SQはセパレーションを改善する技術開発にやっきとなった。すなわち、音響心理を利用して、大きな音を検出して、そのチャンネルのセパレーションを瞬時に改善する方法であった。この考えはノイズリダクションのドルビー、dbx、そして東芝が頑張ったADORES方式にヒントがあった。これらは大きな音のときはノイズには気がつかず、小さな音のときレベルを下げて、ノイズが小さくなるようにしたもので、元々、統計数学者であったドルビーさんはユダヤ人らしい賢さを発揮して、あっと言う間に全世界にドルビーパテントビジネスを張り巡らし、莫大な富を蓄えつつあった。
これらの技術は通常の方々にはうまくいくかもしれないが、オーディオマニアにはシステムが動作する瞬時の不自然さを認知してしまう。勿論、レコーデイング関係者の方々はもっとはっきり分かったであろう。ところが、周りがドルビーなどを採用始めると乗り遅れるというあせりの心理が働き、こぞって、契約に走るのであった。
しばらくして、ドルビー方式の完勝になってしまった。さすが、ドルビーさん、レコードィング関係にはA方式、一般民生用にはB方式というかたちで優位を与えて、採用に勢いをかけてきた。A方式というのは、帯域を3帯域に分けて(バンド・スプリット)、それぞれの帯域でノイズをとると言うものであった。これであると、かなり自然になってくる。それでもレコード関係者はわかったいたろう。そうなると、テープヒスノイズを許して、切れの良いサウンドを狙うか、それともテープヒスの少ない音源とするかも判断であった。わたし自身は録音時、ドルビーはかけたことがなかった。
サンスイ開発チームはセパレーション改善に取り組み、20dB以上のセパレーションが取れる回路を創った。この回路は輸出向けの4chアンプ、レーシーバー、国内市場の4chアンプに搭載された。そこそこの売れ行きになった。
オーディオマニアの観点から聴くと、どうしても回路は動作する瞬時が気になるのであった。これをブリージング(息継ぎ現象という、ドルビーでもdbxでも良く聴くと分かる。)を改善しようと、この回路を3帯域に分けて動作させて、そのあと加算して出力する高級タイプを開発した。これはQSD−1とモデル名で、QSデコーダーとして発売された。この製品は専用ICを開発して搭載しているので、回路的にもスマートに整理された。不自然はほぼなくなった。
4chステレオブームは方式の混乱もあり、だんだんと売れ行きは厳しくなってきた。ビクターのCD−4はレコードで、FM放送なようなことまでやって、言うコメントや、レコードのパチパチノイズを拾うなどと、苦戦であった。ソニー勢のSQ方式も同じように苦戦していた。JVC、SONYもレコードソフト部門を持ちながら、苦戦しているので、各陣営は疲労感が漂ってきた。海外にしても日本というイエローの連中の方式など採用出来るか!というような蔑視のムードもあった。
サンスイは今度は学会レベルで理論的な正当性をアッピールすることにも傾注することとなった。私は学校で聴覚心理を専攻したし、また、会社に無響室もあり、さらに東京工大の故西巻先生のアドバイスを受けて、ダミーヘッドを使って、耳に生じる音圧測定と音圧ベクトル計算でQS方式が音像定位に矛盾のないことを確かめた。これはそこまでやらなくとも、マトリックスに対称性があるので、正しい結果で出ることは予測できた。一方SQ方式は前方2chに何もブレンドしないということから、音像定位がおかしくなることが実験と計算からも分かってきた。この結果を論文にまとめ、AESに発表したが、その頃には4chステレオに対する感心は薄れ、すでに日は西に傾いていた。1973年になっていた。わたしはせっかくこのような面白い環境にあるのだから、このあたりから、自分のキャリアアップに努めると言う気持ちになっていった。
MJ誌にはQS4chエンコーダ入り6chミクサーの製作記事を掲載したり、それを使って、銀座のクラブでジャズ歌手”中本マリ”のライブを録音させてもらったり、土浦の花火大会の録音して、オーディオフェアで再生して、あまりの爆発音でアンプがとっている電源ブレーカーが落ちてしまうので、ブレーカーをガムテープで短時間下がらないようにしたり、楽しく、自分のキャリアを積み重ねた。これがあとのスピーカーやアンプの開発に結果的に役立っていくのであったが、部門外からは遊んでいると言われたりした。
次回は4chステレオの終わりとその後のスピーカ開発とDCアンプの誕生について語ることにする。
2006年4月16日掲載
この記事は、2005年12月18日に”WestRiver(ウエストリバーアンプ)”のサイトに投稿した記事をベースに書き直したものです。