イシノラボ/マスターズ店長の連載

第1弾 日本オーディオ史

第19回 音質検討とその評価について

音質検討とは、何をするのか?その評価は、意味あることなのか?

オーディオアンプはエレクトロニクス製品であるから、一応、性能が出ていれば、製品として充分使えることは、今でも同様である。アンプの音質は回路、部品、構造(レイアウトを含む)の3要素で決まる領域がほとんどだということは以前お話した。

前回までの検討で回路については、固まってきて、今度は部品についておこなうことになった。理想部品であれば、あれこれとその選択に時間を費やす必要はないのだ。ところが部品は理想的なものはなく、特に高周波領域では種々の要素が絡んでくる。NFBアンプでなければ、扱う周波数帯域はぐっと狭くなるので、部品と音質の関係は薄くなるであろう。直結トランジスタアンプではNFBは深く掛けられるので、より高周波領域までの応答を考慮しておかなくてはならない。

私から見れば、無帰還真空管アンプは真空管のような能動部品をうまく選択すれば、受動部品の影響は少ないと思う。無帰還真空管アンプは残留ノイズに留意すれば、それぞれの好みの真空管サウンドが楽しめて、趣味としては面白いと思う。

さて、部品と音質との検討ははた目からみれば、聴いては部品交換、また聴いては部品交換の繰り返しで、この仕事はエンジニアがやることではない、チェンジニアだと、心無い人によく言われた。 確かに、音楽を愛するDNAや体験(感激)の少ない人がやることではない。オーディオ会社はそのあたりを心配して、そのアンプを設計する担当エンジニアには音質決定権を持たせないことが普通になってきた。勿論、音質が云々される機種に限ったことである。具体的には、音質に携わる方を、コンサートに行かせるとか、ある会社では、当時有名でオーディオにも関心のあるジャズベーシストに立ち会って貰って、かなりの決定権を持たせていたという。また、ある会社では、音質担当者がいて、その方に音質決定権を持たすということもあった。

AU−D907の場合、まず、抵抗はタイヨー抵抗という抵抗体の口金が鉄ではなく、真鍮で出来たものを全面的に採用した。これはこれまでの抵抗とこの抵抗とで作ったアンプとを聴いて、すぐこの抵抗でいくことにした。スムーズで瑞々しかった。弱点はややソフトであることだが、これは回路で充分カバー出来た。電源ブロックケミコンは、先立って決めておいたので、量産試作品を確認する作業で済んだ。しかし、ケミコンだけでは高周波領域ではケミコンはコンデンサ以外の成分を持ってくるので、高周波特性の優れたフィルムコンをパラに付けることが必要だった。AU−607では松下のフィルムコンを2個付けたが、今度は、それでは満足がいかなかった。その頃、コンデンサの音質改良に成果をあげた部品がいろいろ登場してきた。具体的にはVコンという2.2μフィルムコンを合計4個付けることになった。¥500以上のコストアップになった。

当時はようやく、コンデンサーの音質と特性との関係に関心が払われだした。AUREX(当時の東芝のオーディオブランド)から、ケミコンにフィルムコンを2個・2種以上パラレル接続する実用新案が権利化したとの情報も入った。この実用新案は帯域別にその帯域に合うコンデンサを付けることによって、理想コンデンサに近づけることが目的であった。結果的にどのオーディオメーカーも気にせず設計していたようだ

そのほか、プリント基板内のグランドパターンをジャンパー線で補強すると、音質がどんどんしっかりしてくることもわかった。また、シャーシ内に流れる電流の処理も現状よりも別の方法を採ると良くなることも分かったが、これはこの機種では採用出来ず、次の機種でお話することにする。また、グランドラインのケーブルも太くするほうが良いが、太すぎると良くないことも分かった。AU−D907ではAWG20のケーブルを2本パラレルにして、要所に用いた。

そうこうして、1978年の夏も終わり、次第に音質はまとまってきた。10月下旬の新製品発表のスケジュールに間に合うように、フィールド(社外)テストをおこなうこととした。その頃は評論家氏も20名以上いらして、皆さん、仕事は多く、多忙であった。 故人となった長岡鉄男氏でのテストは非常に印象的であった。まず、重さを聞かれた。”けっこう、重い!これは良い音が出る!”というようなことをつぶやかれていたように記憶している。非常にパルシブなレコードをバシバシかけて、自作バックロードホーンSPでがんがん鳴らすのであった。 わたしの感触ではAU−607/707に比べ、まったく比べ物にならないほどにパワフルなサウンドが出た。やはり、AU−607/707は瑞々しさが取り柄だと思った。2006年の現在、AU607の修理をして、治った音を聴くと、やはり同じ印象である。今でも色あせない、むしろ、現商品よりも魅力あるサウンドだと再認識する。

それはそれとして、10箇所くらいまわったったところで、パワーアンプの初段のFETの電流は少しだけ増やすこと、アイドリング電流は通常より倍近く多く流したほうが良いことも分かって、変更処理をしたことを覚えている。総じて、すごく好評であった。この好評はAU−D907は確かに優れたサウンドであったが、かってのAUー9500でのトップの評判を取り返せとの応援歌でもあったのだと思う。

さて、どうやって、このアンプを売っていこうかということとなって、まずは、宣伝・広告のコンセプトを決めなければいけない。宣伝部が中心になって、アイディアを出すが、しっくりいかない。こちらもスルーレートが抜群なので超高速アンプはどうか?と言う意見も言ったりしたが、これもしっくりいかなかった。何回目かの会議で特別参加した開発者の高橋氏が”TIMが発生しない”とのことをキャッチコピーにならないかと言い出した。確かに、TIMの提唱者のマッティ・オタラはTIMが発生しないようにするには、スルーレートを高めることが有効と言っていた。そこで”ゼロTIMへの挑戦”と言う、他社に先駆けた、コピーが生まれた。オーディオ雑誌広告、カタログコピーはすべてこれで行こうということになった。今、思い返しても、良いコピーだったと思う。1978年の9月は過ぎ、10月となって、初ロットの生産に入る時期であった。生産工場は、今は無き、組格子の外観でユニークな建物の、埼玉工場で行われた。初ロットは、現在では驚くような、1000台であった。

次回は、初ロットのこと、その後の展開などをお話したい。またまた、つたない文章を読んでくださったことに感謝する。


2006年11月8日掲載