イシノラボ/マスターズ店長の連載

第1弾 日本オーディオ史

第23回 アメリカ向けプロ用アンプの開発とその失敗−前編

プロオーディオ業界への憧れ

4chステレオ開発の頃、レコードディングスタジオに出入りしていたので、ミクサーの方とお友達になれたり、アメリカのAES(プロオーディオ協会)に論文を書いたり、米国AESの大会(コンベンション)に参加させて貰ったりして、すっかり、プロオーディオ業界に憧れていた。

また、オーディオアンプの本当の実力はプロ用として認められることに価値があると考えていた。この頃も、現在も、SR用アンプは別として、レコーディングスタジオ用に日本製のアンプはまず採用されていない。NHKは原則として日本製を採用することが義務つけてられているから、日本製の調整卓(例えばタムラ製)、パワーアンプ(例えばアキュフェーズ)、スピーカー(ずっとダイヤトーン、最近ではブラインドテストの結果FOSTEX)などは日本製であるが、レコーディングスタジオは主に海外ブランドであったし、今もそうであると思う。これは洋楽は白人文化であるから、それを再生するハードも彼等のブランドでないと、関係者(ミュージシャン、ミクサー達)の気がすまないのだ。というと、いかにも舶来にいかれている連中のせいだといっているように取られるかも知れない。実際、かつては、その半分以上は舶来には総合的にかなわなかったのである。(現在は何とも言えないが、・・・。)

プロオーディオ部門への進出戦略のための海外調査

社内で海外営業部門とのミーテングが年2回あり、そこで、商品戦略を検討していた。私は、上司の許可を得て、ミーテングの席上でサンスイアンプのプロオーディオ部門への進出を提案した。最初はとりあってくれなかった。2回目のミーテングでは、「それ程言うなら、まずは現地調査をしても良い」ということになった。

そこで、調査地域はどこが良いか、ということになったが、やはり、当時はLAがレコーディング・ビジネスではトップであった。

丁度、4chステレオ時代、アメリカ西海岸、LAの駐在して、レコード会社やFM会社との付き合いがあった先輩社員MYさんが調査に同行してくれることになった。

さっそく、LAに向けて、MYさんと一緒に旅立った。MYさんの話によるとよくTVで見かけるLAのビバリーヒルズの看板の下の道がスタジオ通りといわれていて、レコーディングスタジオが10軒以上並んでいるという。

MYさんはLAの著名なレコーディングスタジオにアポイントを取ってくれた。

最初は、バートバカラックやカーペンターで一躍メインレーベルになった、A&Mスタジオを訪問した。A&Mスタジオは元々チャップリンが作ったレコーデイングスタジオを買い取ったもので、メインスタジオは非常に広く、天井も高い。響きが豊かで、これがA&Mの明るい、クリアなサウンドの源泉であると思った。マスタリングリングラボが作ったアルテックのユニットをモデファイした38cmウーファに、39cm同軸ユニットを使っていた。親切にも、録音したばかりのテープをかけてくれて、聴かせてくれた。クリアでありながら、出るべきところは低音が地響きを立てて出てくる。これは乾燥したLAの空気もあるだろが、やはり、日本とはセンスが違うと言わざる得なかった。(後年、このスタジオで、あの”We are the world”のチャリティCD音源を、クインシー・ジョーンズのプロデユースで録音している。)

1970年代の終わりのアメリカは日本がまだ16chのマルチトラック録音であったとき、すでに24chのマルチトラック録音が普及していた。イフェクターはまだデジタル方式はほとんどなかった。アナログレコードに対する関心が高かったときだったので、レコーデイングには充分な時間をかけて、納得いくまで、製作していた態度が感じられた。例えば、当時のウエザー・リポートのアルバム作りには、60日以上スタジオを貸し切ってやっていたといっていた。

さて、レコーデイング機器はどうかというと、スピーカはまずJBLではなかった。マスタリング・ラボのツイン方式や、スタジオ独自でマルチウエイスピーカーシステムを作り上げていた。あれだけ、爆発的に日本で売れていたJBL4343はどこのスタジオにもなかった。おそらく、日本向けが90%以上ではあったのだろうと推測された。上記のマスタリングラボやウエストレークスタジオが、そのスタジオに合わせたスピーカーシステムを構築していたのであろう。やはり、低域、それも音楽のベースとなる中低域の再現を最も重視していた。スピーカーシステムの形態はスタジオの壁に埋め込んだ、2π空間タイプであった。壁から離して設置するようなところは皆無であった。

当方が目的とするパワーアンプ関係は、日本でおなじみのマッキントッシュは、民生用であり、まったく採用されていなかった。クラウン(日本では商標権の問題でアムクロン)の採用が最も多く、クラウンのアンプ回路はブリッジ構成でありながら、出力の片側をアースしても壊れないという特殊回路が売りであった。次いで、今はなきBGWブランド、フェイズリニアなどがあった。

スタジオ関係者に音質について質問してみたが、彼等は、まず壊れないこと、壊れてもすぐサービス出来てスタジオの稼働率を上げられることを強調していた。次いで、パワーはどの程度欲しいかと聞いてみたところ、「300W以上かな?」と言って、スピーカーのインピーダンスが2Ω負荷以下になっても問題なく動作することを気にしていた。確かに、ウーファは8Ωのスペックだとしても、最低インピーダンスが3Ωくらいに下がって、そのため、パワフルになるユニットも存在していた。

パワーアンプ以外では、プロセッサとして、パラメトリックイコライザ、コンプレッサが必ず設置されていた。EMTの鉄板エコー、AKGのスプリングリバーブもあった。サンスイで作れるのはパラメトリックイコライザだと思った。パラメトリックイコライザは周波数可変のピーキング、シェルビングできる4帯域くらいのものであった。日本でもその後、民生用に製品化されたことがあったが、グラフィックイコライザほどポピュラーにならず、消えてしまっている。使ってみると、本当に便利だと、今でも思うのだが、・・・。

フォノイコライザ関係は、プロ業界でニーズがないかと、レコード会社のマスタリングルームとかカットティングルーム(確かモータウンレコードだったと思う)を見学した。カッティングにおいては、イコライジングをかけていた。これで、日本盤と海外盤に違いがあることに納得できた。当時はマスターレコーダはAMPEXやスカーリーが主体で、STUDERはまず見かけなかった。

従って、フォノイコライザのニーズは、テストカットしたラッカー盤をモニターする程度、数は見込めなかった。むしろ、レコード会社に採用されて、その評判で日本のオーディオファイルが買ってくれることを期待するほかなかった。

放送局では何かないかと、LAのFM局、AM局を訪問した。放送局では大型のモニターSPは必要なく、調整卓も小型、レコード送り出しも安価な機器であった。放送送り出しモニターにひっそり、JBL4311が鳴っていた。

ウエストレークスタジオ(スピーカでかなり知られるようになった)にも訪問した。メンテナンスのマネージャが日本人だったので、いろいろ聞いてみた。「ヤマハがプロ用として送ってきたものを使ってみたが、故障が多くて困った」と言っていた。ヤマハはこのようなクレームを参考に、後年、日本のSR(PA)市場において、ヤマハのパワーアンプがトップシェアを占めたのも、このような活動が実を結んだのだろう。プロ市場は覚悟を決めないと、安易な進出では成功しないと感じた。

この3週間のLA出張で、商品戦略は固まりつつあった。会社に帰って、出張報告をした。その結果、会社は動いた。だが、その結末はうまくいかないことになる。

では、次回をお読みいただければありがたい。


2007年1月22日掲載