イシノラボ/マスターズ店長の連載

第1弾 日本オーディオ史

第41回 オーディオ評論の今昔

人間の感覚の人種間の違い

日本のピュア・オーディオの発展・推移において、オーディオ評論家のはたした役割は少なくないと思っている。

人間の視覚においては、同じ人種ならば受け取り方にそれほどの差異はなく、議論を挟む余地が少ない。それほど、人間の視覚は鋭敏である。例外は人種間の眼球の問題があり、青い目の方達は夜目は優れているが明るいところは苦手である。欧米のホテルが薄暗く蛍光灯が使われないのは、彼等にとってその明るさで充分だからなのだ。戸外で、太陽光を浴びれば眩しく、サングラスは必須である。黄色人種はサングラスをするのは照れ隠し、顔を見られなくない、格好をつけるくらいの意味しかなかったが、最近になってオゾン層破壊が顕著になると、眼球の紫外線による劣化を考える必要が出てきた。これは、30年くらいの時間で影響が出てくるから若い方は必要だ。熟年層は、先は長くないから、それほど注意しても仕方がない。

青い瞳の欧米人の色彩感受性は、我々と異なりややおおざっぱのようだ。暗い色を総称してアースカラー(いわゆる土色)と読んで、片付けているように思う。黒い瞳のイタリア人は、我々と同じような感受性をもっている。だから、服飾等の色彩感覚に優れ、センスが良い。北方の白人は相対的に服飾センスがそれほど良くないのは、このせいだと思っている。長い冬と暗い時間の多い北ヨーロッパには鮮やかな色彩風景の時間はあまりにも短期間である。

こと、聴覚・味覚となると、これは発生学的に皮膚感覚から進化したものであるから、人間では視覚よりもその能力が劣るのは仕方がない。また、聴覚・味覚を共通語で表現しても、それほどの間違いがないと思っている。

前置きが長くなりました。

オーディオ評論家の誕生

日本人は、以上のような聴覚の性質に加えて、謙虚と言うか自分に自信が持てないというか、自分が異質にならないようにすると居心地がよくなるせいか、何か指針が欲しいのである。

まして、音楽、それに伴うサウンドは舶来文化・文明であり、この評価は謙虚にならざるを得ない。わたしもその一人であった。

オーディオが盛んになる前に、西洋音楽に対するジャーナルがまず先であった。まず、音楽評論家という職業が成立した。 堀内敬三氏(確か、音楽之友社創立者)がその草分けであった。月日を経て、オーディオが注目を浴び、LP時代となって、青木周三氏、永田氏、諸氏が登場したが、主に海外オーディオ製品の紹介、解説だったように思える。

そして、ステレオ時代を迎えて、オーディオ評論が登場したと言えよう。高校教師の立場であった高城さん、医師であった岡田淳さんらが先達であろう。そして、オーディオ評論の立場を明確にしたのは五味康祐氏であろう。芥川作家であったから、その文章はすばらしく魅力的であった。五味氏のおかげで、TANNOYスピーカは日本における地位を不動のものにしたと言える。

オーディオ関係誌と言えば、“ステレオサウンド”・“ステレオ”が発刊され、そのほかに続々とオーディオ誌が登場した。1960年代後半から70代初頭であった。

売れるから、発刊されるのであって、そうなると、当然、書き手を必要とする。オーディオ評論家はそのような事情から誕生したのであった。せっかくであるから、ハード側にいたエンジニアとして、評論家の皆さんの様子を述べてみたいと思う。存命の方は時効で許されるかも知れないが、それは避けることとして、故人となられた方に限ることとしよう。

オーディオ評論家さん達の思い出
瀬川冬樹さん

瀬川さんはペンネームであり、本名は大村さん。そのペンネームの響きは素敵である。瀬川さんのキャリアは詳しくないが、はじめは、オーディオクラフト誌のライターでもあったし、工業デザイナーでもあった。

私がお会いしたのはAU−607が販売された頃であった。団地に住まわれ、リビングルームをリスニング・ルームにしていた。そう広くないスペースにでかいEMT927があり、マーク・レビンソンのプリアンプ、SAEのパワーアンプ、KEFのスピーカ、それに、驚いたのは、サンスイではまだ販売していなかったJBL4341(4343ではない)をメインスピーカにしていたことだった。JBLとKFFとは随分、音質傾向は異なるが、どちらも気に気に入られているようだった。

ガラス棚にはカメラがずらりと並んでいた。レコードにトーンアームを下ろす手つきはすばらしくスムーズで、ご本人も“俺ほど格好良くレコードをかけられる奴はいない”といわれていた。

聴かされたレコードはジャズ・クラシック・シャンソン等とジャンルに限らないという感じであった。瀬川さんは“早く広い家に移りたい!”、“でも、自営業者扱いになるオーディオ評論家には、銀行はなかなか金を貸してくれない”と嘆いていた。

瀬川さんのオーディオにかける情熱は人並みはずれて凄かった。従って、その文章には、人の気持ちを動かす迫力が常にあった。また、リスリング・ルームを建てるために、もの凄いペースで働いていた。しばらくして、素晴らしいリスニングルーム(瀬川さんの設計)を備えた豪邸を建てた。その返済額は毎月、少なくない額と瀬川さんはいわれていた。“だから、懸命に働くしかない”と。当時は、幸いなことに、オーディオ販売店やオーディオメーカー、代理店主催の催事がたくさんあった。

また、オーディオメーカーや代理店も第3者的な見地からの評価を求め、アドバイザー的な仕事もあった。従って、原稿書きや講師、アドバイザーとして、物凄く“売れっ子”であったので、超多忙であった。

JBL4343についての使いこなしでは第一人者であり、JBL関係者にとっては大変なサポーターであった。瀬川さんは、本当にJBL4343を愛していたと思う。

また、その反対傾向にあるイギリスのKFF、Rogersなどのスピーカにもサポーターといえた。アンプはマーク・レビンソンのプリアンプとパワーアンプにも惚れていて、ずっと愛用されたと思う。SAEのパワーアンプは手放されて、マークレビンソン 25Wのパワーアンプを4台でブリッジ接続で100W+100WでJBL4343をドライブされていた。

私は新築された豪邸に、新製品を度々持参して、聴いて貰っていた。そうしての折り、瀬川さんは、帰り際に、“尻の状態が良くないので、これから、漢方治療に行く”といわれていたので、わたしは親類に医者が多いこともあり、”病院に行って、検査したほうが良いですよ!”と、ついそういってしまった。このような状態は1年近く続いていたと思う。そうして、瀬川さんが入院されたとの報があった。S字結腸ガンで手術されたということであった。退院されて、お会いしたがげっそり痩せてやつれていた。

サンスイでは、瀬川さんの工業デザイナーとしての手腕を買って、レコードプレーヤSR−929のデザインを依頼した。ピアノフィニッシュの価値感のある格好になっていた。

また、しばらくして、豪邸を手放してお一人になられ、オーディオ機材も整理されたようであった。そして、再入院になり、帰らぬ人となった。喪主は、サンスイ・デザイン部の義弟S氏が勤めた。確か、享年47歳の若さだったと思う。

もし、瀬川さんが存命であったなら、オーディオ界は、もう少し活気を呈していたと言う方は少なくなかったと思う。最近、聞いたことであるが、友人には、瀬川さんは、“俺の人生は破滅的!”と言っていたそうである。亡くなって、かなりの年月が流れた。けれども、あの熱い文章は忘れられないオーディオファイルは多いと思う。

瀬川さんはどのようなサウンドを好まれていたのであろうか?少なくとも、ツヤがあり、実在感があり、ダイナミック感があり、また、しっとりしたサウンドではなかったかと思う。瀬川さんがコンサートに行かれた話は聞かないので、オーディオ的サウンドを極めた方ではなかろうか。その情熱溢れた文章は、今、残された文章(ステレオサウンド誌がメイン)を再度、読み直しても、感動を覚える。

井上卓也さん

井上さんも瀬川さんと同じように、”ステレオサウンド誌“への執筆がメインであった。

井上さんは大変な人見知り屋さんである。恥ずかしがり屋さんでもあった。お話するとき、相手の目を見て話せないような雰囲気であったから、人前に出ることは少なかったし、ご自宅のリスニングルームやオーディオ装置などは公開されなかったから、オーディオ界ではそれほど高名ではなかったかも知れない。

井上さんは医学部に入学されながら、好きなオーディオ界に入ってきた方であった。オーディオメーカーに入社することもなく、そのオーディオ的実力の凄さは一部の方しか知らなかったと思う。

私も、関わり合うまで知らなかった。どこが凄いかと言うと、並外れた、サウンド、それも微妙な音質の差異を嗅ぎ分けてしまう能力であった。

私の上司は井上さんを評価して、会社に来て開発中のサウンドを聴いてくれるように依頼した時期があった。そこで、関係者に取材してみると、井上さんはスピーカシステムの開発におけるサウンド造りにおいてはプロであった。当時、一世を風靡したY社のモニタースピーカや、M社の爆発的に売れた2WAYプラススーパーTW付スピーカのサウンド造りに関係したということであった。

また、井上さんはクルマ好きで、イタリアのランチャー(よく故障した)に乗っていたし、そのほかスポーツカーも持っていたが、特にひけらかす人ではなく、恥ずかしがり屋であったから、自分から、言い出すことはなかった。

また、また、時間にはルーズで、2時間遅れというようなことはしょっちゅうであったが、恥ずかしそうな顔で現れると、つい許してしまう人徳があった。

井上さんは当時(1970年代半ば)、サンスイに来訪されたとき、アンプのサウンド造りの現場に来たことはなかったといわれていた。井上さんには、まず、サウンドを聴く部屋をお見せした。この部屋は40坪あり、ステージから階段状の場所で聴けるようになっていた。設計は、日本オーディオで今も元気な加銅鉄平さんであった。

この設計には私も一枚噛んでいた。というのは、少し前に、NHK教育TVで、オーディオ講座番組があったのである。“信じられないですよね!”オーディオ各社が分担して、講師になった。サンスイの担当は、“ルーム・アコーステック”であった。私は4ch開発で音場定位の検討に関わっていたから、協力メンバーにされた。講師は、現在も超元気なZ社のMさんであった。私は、せっせと講座原稿を書くことになったので、いろいろと勉強したことで、この方面でも、他のエンジニアよりは興味・見識があった。

これまでのサンスイのサウンドルームはひどくデッドで、音場が形成されず、無響室のような味気ない、楽しくないサウンドであった。4ch開発のときは、天井から拡散板を吊り下げてもらい、サウンドの拡散で改善を図った。このようなことは、レコード会社、レコーディングスタジオ、アメリカのスタジオ等に行かせてくれたことが大変役にたった。話が、はずれて、申し訳ないが、そのサウンドルームは小規模な録音も出来るように、モニタールームを設置し、サウンドルームとモニタールームとはキャノンケーブルでマイク回線も設置して貰った。いろいろなことを聞いて貰えるほど、当時のオーディオ界は右肩上がりであった。

さて、井上さんは、“レコードプレーヤを見せてくれ”と言う。当時は、SMEのアーム・DENONのDP3000のフォノモーター・SHUREのV−15IIIを使っていた。井上さんは、フォノモーターはテクニクスのSP−10MKII、トーンアームはJVC 、カートリッジはエンパイヤーの4000DIIIが良いと言う。

社内のある部門では、オルトフォンMC20を使っていたところがあったが、私はオルトフォンにしては繊細過ぎると思って、あまり好まなかった。最近、知ったことであったが、設計は、当時オルトフォンに在籍していたZYXの中塚さんであった。だから、MC20は日本でも評判良かったのだ。

エンパイヤー4000DIIIにはまったく抵抗がなかった。このMMカートリッジはバランスが良く、ひずみも少なく、すっきりして、大変気に入った。すぐ、個人的にも買って、今なお使っている。

使うスピーカのJBL4320については、井上さんは特に異論はなく、“少し、低音が軽い!”とだけコメントされた。

スピーカーケーブルについても、に指摘はなく、当時はなるべく特性インピーダンスが低いほうが良いと思って、同軸シールドケーブルを太くした(75Ω)スペシャル品を使っていた。

さて、ヒアリングに当たって、井上さんは、プログラム・ソースについて、アンドレ・プレビン指揮・ロンドン交響楽団のブリテンの“管弦楽入門”、B面のプロコフエフ“ピーターと狼”を使いたいといわれた。

まず、“管弦楽入門”では、はじめにプレビンのナレーションが入りながら、各楽器を紹介していく。これで、再生の難しい男声から、各楽器が聴け、さらに楽器が増していき、最後には全奏(テュティ)になるのである。これは、ヒアリング用にぴったりだった。B面の“ピーターと狼”は、今度は、奥さん(当時はメル・ファーラー)のナレーションなのである。

このような準備でアンプを聴き始めた。当時は、ダイアモンド差動回路の新型アンプ、それもAU−D907のサウンド検討の真っ盛りであった。

わたしは、当時から、“オーディオ機器の製品化には、最初から細部を調整してもうまくいかない。「技ありとか効果」のようなアプローチでは、拉致があかない。「大技」が必要である。と考えていた。

ここまでで、長くなってしまったので、次回にお話を譲ります。ご愛読ありがとうございます。


2010年4月5日掲載