イシノラボ/マスターズ店長の連載

第1弾 日本オーディオ史

第47回 CD登場前後の事情

長いブランクを作ってしまいました。下書きしている間に、大地震や津波のニュースがあったりして、日時が過ぎてしまいました。大変なときこそ、好きなことはおやりになったほうが心身の健康が保てます。被災者の方々に何か貢献するにしても、健康があってこそです。

アナログ録音の成熟

ステレオ録音・再生方式が確立して、各レコード会社は、競ってテープ録音によって音源製作に邁進した。そして、世界中にオーディオ産業がホットとなった。

そのうちに、主として録音時にいろいろなテクニック(プロセッサ)を通じて、再生音源でしか聴けないようなサウンドを作り出すことにセールスポイントが移ってきた。

また、よりクリアな独立した個々のサウンドを求めたために、マルチトラック録音方式がはやってきた。最初は8ch程度、そのうちに2インチテープによる16chテープデッキが発売され、多くのレコード会社、録音スタジオが採用するに至った。すなわち、リズム楽器・ブラス・ストリングス等を個別に録音して、いわゆるカラオケテープを作り、これを聴きながら歌手がボーカルを録音するという方式が定着した。

こうすることによって、ミュージシャンも歌手も録り直しもでき、かつ、部分的に修正もできるようになった。問題は、マルチトラックから2ch音源にまとめるとき(トラックダウンするとき)、ミクシングによってサウンドと一緒にテープノイズが加算されるという事態が発生する。それでなくとも、38cm(15インチ)スピードで録音しても、S/N比は60dB以下であった。スタジオで生音をモニタースピーカで聴いたときと、テープ再生サウンドとは、とても鮮度の高いサウンドであるが、生音にはかなわない。少なくともテープヒスノイズが聴こえるのである(音量を100dBくらいで聴くとき)。

そこで、テープノイズを減らそうとノイズリダクションを挿入して、その悪化を食い止めることがおこなわれた。ほとんどのところではドルビー方式が採用された。特に、プロ用に作られたドルビーAと称する機器が作られて、各社は採用した。このドルビーAなる機器は、サンスイのQSデコーダーQSD−1と同じように3帯域に分けた。それぞれの帯域でドルビーNRを掛け、そのうえでミックスしてS/N比を稼ぐ方式であった。確かに少なくとも10dB以上は効果があった。また、30dB程度のS/N比改善方式としてdbx(デービット・ブラックマンの発明)も登場したが、改善効果はあったが再生時に息継ぎ現象(ブリージング現象)があって、メジャーな存在にはならなかった。

いずれしても、技術には必ず光と影が存在する。これらNRを通した音源は確かにS/N比は良くなったが、瑞々しさ・リアル感・躍動感が少し失われていた。

アナログテープ録音の究極の性能アップ法

そこで、オーディオファイル向けとして、76cm(30インチ)/secによるテープ録音方式が登場して、S/N比、Dレンジが3dB向上した。しかし、うっかりすると、高速テープ走行により低音(30Hzあたり)が落ち(コンター効果という)、レコードカッティング時に低域を上げて補正することが必要であった。

それでもオーディオファイルは喜んだ。そこでその上を考えると、もうテープを使わない、ダイレクト・カッティング方式に行き着いてしまう。

ダイレクト・カッティングのレコード

それを売り物したのはシェフィールドラボであった。わたしも買ったが、“I‘ve got the MUSIC”の音盤に代表されるサウンドは素晴らしく、すぐに完売になった。日本のレコード会社も負けじとダイレクト方式のレコードを発売するに至った。

しかし、ミュージシャンへの負担が大きくかかり、失敗が許されないために制作面で行き詰まった。ミュージシャンは失敗、録り直しにうんざりして、“2度とやりたくない!”だろうし、録音スタジオにカッティングマシンを持ち込みその場でカットしていくのも、カッティングエンジニアにも相当なプレッシャーであった。でも、そのひずみ感のないテープヒスノイズがまったくないサウンドは凄かった。今でもお宝と思う。

PCM録音の登場
そこで、PCM録音が登場した。

PCM方式の発明は古く、1930年代である。しかし、実用となると問題が山積みで、実用化は果てしない道と思われた。戦後も大分経ち、さらに良い音を目指して、日本ではNHK技研が中心となって開発された。その成果が実用可能となったが、まだ超大型機で、その技術開発の実用化は日本コロムビアに引き継がれた。日本コロムビアでは、何とか移動できるようなサイズに納めてPCM録音機を作った。その方式は当時14ビット方式であり、PCM録音機を使って録音し、PCM録音のアナログレコードとして発売した。主としてクラシック録音に使われて、そのサウンドの良さをセールスポイントにした。

けれども、その当時の評判は特に良くもなく、かえって、“音が固い”という評価も少なくなかった。

PCM録音の広がりとPCMレコーダーの発売

1978年頃、PCMレコーダーを小型化して作れるような環境(ICの開発など)が整ってきた。SONYはポータブルPCMレコーダーを発売した。メディアはVCRを利用するものであった。

この製品は16ビットと唄っていたせいもあって、大変注目され、売れた。結果として、オープンリールデッキはみるみる売れなくなった。各レコード会社もPCM録音の準備を始めてきた。プロ用に、SONYの1/4インチテープを使う三菱のマシンなども登場してきた。

サンスイも技術研究所が中心となってPCMレコーダーの開発に取り組み、VCRが3倍速でも充分なクオリティがキープできるトライPCMとして、PCM−1を売り出し、14ビット方式であったが、それなりに好評で売れた。

この技術の延長はDATに引き継がれ、DAT技術の内容審議、まとまりが図られ、DATとして登場したが、そのライフが期待されながら、短命に終わりつつあるようだ。

CD登場のはじまり

そして、CDが登場するバックグランドが整ってきたのであった。オランダのフィリップス・SONYが共同でDAD(デジタル・オーディオ・ディスク)技術を発表した。技術内容は、このグループに参加すれば得ることができたし、ノウハウの提供もあった。

勿論サンスイもその技術グループに参加したが、どちらかと言えば慎重であって、当時はアナログ両面プレーヤーの開発に力点を置いていた。

評論家の方達もスタンスはいろいろであったが、金子英男氏・斉藤ひろつぐ氏・藤岡誠氏たちは積極推進派であった。慎重であったのは重鎮、菅野沖彦氏であった。

1981年には、テストカットのCDや試作品のCDプレーヤーが登場し、音を聴けるようになってきた。わたしも聴かされたが、よく言えばクリア、今から思えばきつい感じのサウンドであった。けれどもS/N比・セパレーション・演奏時間の長さ等はすばらしいものがあった。

それでは、次回もお読みいただければ幸いです。


2011年5月22日掲載