イシノラボ/マスターズ店長の連載

第1弾 日本オーディオ史

第61回 通信カラオケ関連コンポを作る

カラオケ文化と通信カラオケの登場

古い話で恐縮だが、カラオケ関連コンポはサンスイでも作っていた。それはAX-7という簡易ミクサーであった。1980年初頭だったと思う。当時は“カラオケ”という言葉は業界用語で、ボーカルの入っていない、伴奏音源をそう言っていた。
日本人は、酒宴になれば、唄を唄う文化(?)があって、カラオケ登場以前は手拍子くらいがよいところであった。アカペラで唄うしかなかった。

そのうち、カラオケテープを生かして、マイナス・ワンレコードを歌謡曲にも広げてみたらという声が上がった。クラシック分野では、コンチェルト用にマイナス・ワンレコードが細々と発売されていた。サンスイが付き合っていた東芝EMI(行方さんグループ)でも、カラオケレコードを製作して発売したがパッとしなかった。
その後、第一興商は8トラックテープにより、カラオケビジネスをおこなっていた。

カラオケが飛躍的に発展したのは、パイオニアのLD(レーザーディスク)がカラオケの中心システムになったことであろう。
LDのオートチェンジャーが造られ、それらを採用したカラオケ店が続々と生まれるようになってきた。
カラオケ店に行って、索引からLDを選択すれば、画面(当然、その頃はブラウン管TV)に関連画像と歌詞テロップが映し出され、当然、カラオケサウンドも流れる。それに併せて歌えば、立派な歌唱となるわけで、社内旅行、忘年会等のイベントには、カラオケ付が必須になった。

小規模であるが、画像付(ビデオ)CDも登場したが、これはファミリーユースとしての用途を目指したので、大したビジネスにならなかった。

そのような経過時期にK社のカラオケアンプの開発に携わっていたりしていた。

それから、3~4年過ぎた1992年頃であろうか?
突然、“電話回線を使って、カラオケができる画期的なシステムが発明された!”という情報が入った。
カラオケはあまり好きでないが、ピュアオーディオ・ビジネスがパッとしない時期であり、“これはビジネスチャンス!”と言われれば、様子を見ないわけにはいかなかった。
さっそく、出かけてみた。その会社はリコー傘下で設立されたばかりの会社で“ギガ・ネットワークス(株)”ということであった。
電話回線を使って、センターコンピューターが各契約先にカラオケ情報信号(画像、カラオケオーディオ信号)をデジタル信号で送り、受信先ではコントローラーがあり、それによりカラオケができるシステムで、カラオケ店ではコントローラー、カラオケアンプ、カラオケスピーカがあれば、カラオケが自由自在にいくらでもできるものであった。
これならば、カラオケ店、スナック、クラブ、旅館等の設置負担は大幅に軽減されるものであった。

当時、ギガ・ネットワークス、タイトー等、5~6社の会社が設立され、覇を競ったが、現在の通信カラオケは、トップが第一興商、2番手がエクシング(ブラザー工業グループ)のほぼ寡占状態である。

確かに、これまでのカラオケビジネスを画期的に進展させる新方式であった。
ギガ・ネットワークスの社長に会ってみて、要請されたことは、カラオケ用のオーディオアンプ、スピーカシステムのOEM供給のビジネスであった。私はこのビジネスでは、プロジェクト・マネジャーという仕事が主な業務となった。

ギガの“マイ・ステージ”とネーミングしたカラオケシステムは当初は人気を博したが、段々厳しくなり、会社は三愛グループ傘下となった、現在、カラオケビジネスはやっているかどうかは定かでない。

カラオケアンプとカラオケスピーカをOEM生産品として、設計、生産、納入する。

まず、仕様・デザインを決めることが先決

カラオケアンプ

パワーは80W+80W(8Ω)程度出れば良い、マイクミクシング回路は3回路、そこに、デジタルエコーとトーンコントロール(カラオケ用とマイク用に分離した2組)を装備する内容であった。
パワーアンプ回路はできるだけシンプルに作るべきと考え、かつて、西電工向けのPAアンプに採用したサンヨー厚膜モジュールユニットを搭載することにした。音質はともかく、設計時間を短縮できるし、性能もばらつかないし、結構、モジュールユニットの価格は相対的に安かった。

実際の電気設計は、優れた電気設計者I・Sさんが担当することになった。デザインはアンプスピーカともにギガ・ネットワークスからの指示で、イギリス人デザイナーが担当することになった。私は全体のコンセプト、仕様含め、外人デザイナーの仕事場に打ち合わせにいった。

会いに行くと、40才台の工業デザイナーで、日本人のデザイナーとそれほど異なった感じはなく、違和感もなかった。“コンセプトカラーは?”と聞くと、“シャンペーン・コールド!”そして、全体に曲線を採用して柔らかな雰囲気を出したいと言う。
何回か打ち合わせて、デザイン図ができ上がってきた。アンプは写真に示すようにフロントパネルの断面にカーブを造って、ふっくらとしたイメージが出ていた。サイズはやや小型で、安らぎを感じるものであった。つまみもシャンペーン・ゴールドで、丸っこくて、カラオケを唄うには力まない雰囲気があった。

当時、他社のカラオケアンプでは日光堂のアンプ(マランツのOEM)が有名であったが、ごつくて、サイズが大きすぎる存在であった。
主要パーツ、電源トランス、ヒートシンク等はこれまでの取引先に頼んで何とかなりそうだった。
問題は、どこで作って貰うかであった。台数もそれなりに多いし、我々が出向いて指導するような工場は避けたいという気持ちがあった。

いろいろ人脈をあたってみて、サンスイ資材部にいた方が福島の北部通信という会社で重要スタッフとなっていたことが分かった。さっそく会いに行き、何とか作って貰いたいと頼み込むと、“やりましょう!”と快諾してくれた。
支払条件等、難しい問題もギガ・ネットワークス、OEM会社に交渉して、何とか解決できた。当然、ギガ・ネットワークスからの支払いは約束手形であったが、リコーの関連会社なので、信用があった。

設計・試作はスムーズに運び、割と、順調に進行した。
生産も大きなトラブルもなく、受け入れ側のギガ・ネットワークスは細部までほじくるようなクレームを出すことなく、完成品は順調に納入された。

カラオケスピーカ

スピーカは以前、dbX向けのサブ・ウーファを作ったときの“(株)タモン”にOEM依頼した。(株)タモン(現:(株)KYD)は埼玉の越谷のはずれにある倉庫のような建物で活動していた。
ダイヤトーンのDS-3000シリーズをOEM生産していたことがあって、日本国内では数少ないスピーカ生産メーカーであった。(海外生産が盛んになりつつあった時期)

技術部長のIさんにお会いすると、“喜んで、造りましょう!”と言ってくれた。スピーカデザインは当時人気のあったBOSEのカラオケスピーカにフォルムが似ていたが、シャンペーン・ゴールドカラーであるので、目立つことはなかった。カラオケの雰囲気にマッチするような風情があった。

できるだけ安く作りたいという要求があったので、I部長と一緒に検討を重ね、中央に20cmウーファ、両脇に5cmコーンツイータを配置する横型になった。キャビネットはバスレフ方式となった。

ネットワークもなるべくシンプルにするために、4層ボイスコイルとして、ボイスコイルのインダクタンスで高域が下降するようにして、低域用インダクターを省略した。ツイーター側は低域カット用のコンデンサーだけで構成できた。カラオケ用であるから、ワイドレンジというよりも、唄っていて気持ちが良く、乗りが悪いと疲れてしまう。このことはアンプの性能も関係するので、アンプと組み合わせて、唄ってみてのパフォーマンスであった。

オーディオ技術的には、おそらくDF(ダンピング・ファクタ)あたりが関係するのかもしれないし、周波数特性のどこかにイコライゼーションを加味するとよいのかも知れない。前述の日光堂のカラオケアンプの周波数特性はフラットではなく、ある低域帯を少しだけブーストしていた。

そのような経緯を経て、割とトラブルなく、このプロジェクトは進行していった。注文のキャンセルもなく、代金の支払いも問題なかった。

さらなる製品開発

ギガ・ネットワークスが主宰する“マイ・ステージ”システムのコントロールコンピュータは“ローランド”製ではなかったかと思う。
この通信カラオケの滑り出しは快調のようであったが、心配は、リコーのような大企業傘下であることは、夜の商売に社員がうまく適合して活躍できるかであった。カラオケ専門の第一興商は、22時を過ぎると黒スーツの社員が続々と出勤し、それから次々と夜の街に出掛けていくのを見ると、この商売は大変!と後年、思った。
また、毎月リリースされる唄ソフトは膨大で、買って、唄いたいお客さんにカラオケが用意されていないと、“もう、来ない!”ということになってしまう。興味本位だったかもしれないが、毎月の発売に対応して、ソフト製作の現場を見た。ソフトを聴いて、すぐカラオケ製作にとりかかるのである。そこには楽譜はなく、せいぜい歌詞くらいである。カラオケ製作者は耳で聴いて、シンセサイザーを駆使して、何とかカラオケを造ってしまうのであった。さすが、プロだと感心した。本来のカラオケは歌い手がプロであるから、メロディラインはない!カラオケでは、唄いやすいように、メロディラインが控えめに入っている。
また、付随する画像は同じように画像のプロがいて、懸命に制作していた。
それはそれとして、カラオケを唄うには、元のキー(音程)で唄えれば良いが、お客さんによっては、キーを替えないとうまく歌えないという方もいる。

そのころには、デジタル技術が進歩して、キーコントロールが可能なようになってきた。ギガ・ネットワークスからは、何とかキーを変化できる機械を造れないかという打診と要請があった。いわゆる“キーチェンジャー”であった。

我々の会社はアナログオーディオ技術がメインだから、とても対応できなかった。どこかに、手頃なデジタル・オーディオの会社はないかと探してみた。うまいことに我々の会社(秋葉原)の近くに“ZOOM”と言う会社があった。(ZOOMは現在、京王線沿線にあり、小型デジタル録音機で頑張っている。)
そこで、訪ねて事情を話すと、“何とかやってみましょう!”いうことになって、ZOOM側の担当社員が決まり、開発が始まった。そのキーテクノロジーはDSP(デジタル・シグナル・プロセシング)を使うことであった。ソフト開発であるからその業務は昼夜関係なく、開発は進行していった。我々は、でき上がってソフト収納し、キーチェンジャーとして装置をしてまとめることであった。
ZOOMの担当者は徹夜の連続で頑張ってくれて、ソフトは完成した。その時期に合わせ、ハードのほうもでき上がり、キーチェンジャーはカラオケアンプのオプションとして、でき上がった。この装置はデジタル・オーディオの産物であった。使ってみると、うまくキーが変化してくれて、唄える。便利なマシンであったが、その使い心地は私の感覚ではわずかに違和感があった。

その結末

華々しくスタートを切った“マイ・ステージ”であったが、競合会社が進出してくると、次第にその経営は厳しくなってきたようだ。やはり、夜の商売はその道でならした会社が強かった!と思う。

やはり、第一興商の凄さはそれこそ凄いと思った。

その後、10年くらい経ったあと、カラオケ用Dクラス(デジタル)アンプの開発で第一興商の仕事を手伝ったが、どこもマネできない実績、ノウハウ、強力な経営者がバックにあったのだと感じた。

つたない文章をお読みくださってありがとうございます。次回は、ある有名オーディオ会社の真空管プリメインアンプの設計委託についてお話しましょう。


ギガ・ネットワークス マルチメディアアンプ“MA800”
ギガ・ネットワークス マルチメディアアンプ“MA800”


2014年4月13日掲載