2019年10月17日、前園俊彦さん*1が84才でお亡くなりになられました。お疲れ様でした。本当に素晴らしいオーディオ人生だったと思います。
*1:前園俊彦さん:サンスイOB、元オルトフォンジャパン代表取締役、(株)ゾノトーン創業者(前会長)
前園さんと始めてお会いできたのは、1969年4月でした。
サンスイの技術系新入社員として入社した私は、同期新入研修の一貫で、新商品を材料として紹介と解説を担当されたのが前園さんでした。
当時、商品開発の3羽ガラスとして、アクティブに活躍されていたのは、前園さんとI・Rさん、I・Tさんでした。皆さん、30台前半の若さで、エネルギーに満ちていた強力陣でした。
前園さんはそのときはSP-2002という新製品スピーカーをセットして、我々にオスカー・ピーターソンの“We Get Request”を聴かせて、その素晴らしいパフォーマンスで我々に快いショックを与えてくれました。
それから、リスニングルームの明かりを消して、スライド上映を始めました。それは長野の組子職人工房で撮影した組子製作の様子を写したものでした。
素材の選択、加工、塗装、組子への組み立て、組子ネット完成まででした。それは熱のこもった説明でした。
いくら何でも量産品がそのようなハンドメードで作られたら、とても高価になります。
そのお話は極端な話で、実際はそれなりに機械化して作っているはずでありましたが(後日、スピーカー設計者として組子工場を訪問して、その機械化製造ラインにはびっくりした)、真剣な話しぶりにはびっくりしました。やはり、演劇業界にいた方の訴求パワーを感じたとともに、一生懸命さに打たれました。
聞くところによると、当時、オーディオ販売店の方々を招いて、“組子ストーリー”に熱弁をふるっていたそうです。
サンスイの組子は単品スピーカーだけでなく、セパレートステレオ(いわゆる3点セット)のスピーカーはすべて組子を採用していました。他社との差別化は見事でした。
私は入社後、スピーカーの設計・開発に従事して、大変なオーディオに対する収穫を得たつもりでした。
その後、会社を揚げて開発していた4ch開発促進部に移りました。当時、実際のサンスイのオーディオビジネスは4ch主体でした。海外、とりわけ、アメリカ向けのレシーバーはセパレーション改善回路を搭載したQS4ch対応機でした。大きな売り上げでした。
一方、国内は各社4chセパレートステレオ全盛で、小型リアスピーカーをフロントスピーカーの上に置くというようなおかしな実態でした。現在の5.5.1chシステムも同じ様な状況と聞いています。
そのような状況で、アイディアマンの前園さんと私の接触は特にありませんでした。
そのうち、販売促進用のLPレコードを製作するというお話を聞きました。
“どのような内容?”と聞いたら、“新進のフォークソングシンガーで小椋佳という男性のアルバムをQSエンコードレコードにして、セパレートステレオを買ったお客さんにプレゼントするんだ!”と。“小椋佳?知らない!”と私。“それじゃー、聴いてみな!”と当時のポリドールレコードに連れて行かれました。
ちょうど、QSエンコード作業が必要なので、QSエンコーダーを持参しました。機材のセットが終わり、すぐ、マスターテープからQSエンコードされたサウンドが流れてきました。
QSエンコードすると、逆位相ブレンド回路が動作するので、位相成分が大きく広がるのです。2chで聴いても、はっきり、包まれるような音場になります。
素敵な曲で、新鮮なメロディーといい、清々しいボーカル、そして、センスの良いアレンジ。最高な体験でした。
“前園さん!どうやって、このような音源を見つけたの?”と聞くと、“小椋佳というのは、本名は神田さんと言って、東大卒の銀行員なんだよ。ルックスがイマイチなんで、芸能界に出る気は全くないらしい”、“評判を聞いて、すぐ、レコードを作る契約をしたんだ!”。
私は、前園さんはクラシック好きで、ポップスには関心がないものと思っていました。
このレコードは評判が良く、このレコードは販促材料として大いに役立ったと思います。私はこの時から、小椋佳ファンになりました。
それから15年以上経った時点で“青春の詩”のCD盤を買いました。そして聴きました!
そこには包み込まれるような音場はなく、小椋佳のしょぼいボーカルが聴こえるだけでした。
やはり、A/D→D/A変換のサウンドは変質する。デジタル臭さが残るという意識はいまだに無くならないです。
おそらく、前園さんの本音はQS4chには批判的であったと、当時、思ったのを覚えています。
皆さん、NHKでオーディオを取り上げるとは!びっくりすると思います。1970年代前半はオーディオ全盛期でした。
晴海会場で開催された“オーディオフェア”は大盛況で、皇太子(現上皇)様がオーディオフェアに見学に来られたほどだったのです。
このオーディオ講座は、オーディオ各社が分担して、30分で一応のオーディオを解説するものでした。確か、10回程度続いたのではないかと思います。
当時、前園さんは宣伝部長として活躍なされていました。
サンスイ窓口は前園さん、そして、TV出演するのも前園さん、当然、講座内容を検討しなくてはなりません。
サンスイの分担は“オーディオリスニングルーム”になりました。
そうなると、社内の誰かに内容検討をさせる必要がありました。
その当時、私は4ch多次元音場システム(QSシステム)の開発に携わっていました。そして、スピーカー設計もやったし、東京工大名誉教授、西巻正郎さんに社外ブレーンとしてヘルプしていただき、そのときの社内担当が私に振られてしまっていたこともあってのことであったでしょう。また、社内リスニングルームを造る際の関連人材にもなっていたので、私が担当になってしまいました。
前園さんは“ともかく、面白く、そして、内容が濃く、ユニークに”と盛りだくさんのリクエストでした。私としては、いろいろ調べ、体験に基づく内容を盛り込んで原稿を書き上げました。
しばらくして、前園さんから原稿が戻ってきました。“書き直し!”、もっと、面白く!“言い回しは私がしゃべるのだから気にしなくて良いが、内容ももっと濃く!”。
それで書き直し、提出したら、原稿が赤ペンだらけで戻ってきました。赤ペン内容に沿って修正すれば、何とかなる段階に達しました。
私は、本来の仕事もあるので、オーディオ講座は時間外でやっていました。
NHK教育TV“オーディオ講座”はそれなりの反響があって終了しました。TV画面での前園さんの演技力と言おうか、訴求力は見事でした。
勿論、前園さんは宣伝部長であり、第一線で活躍されていました。
初代“AU-607”・“AU-707”は、サンスイ初めてのDCアンプ、それに3段差動増幅の採用と、かなりユニークな回路でした。
この工業デザインを担当したのは、新入社員だった、現在マスターズアンプのデザインと機構部分の製作を担当している大友さんでした。
やはり、今でも、彼のデザインにはヨーロッパの香りとゆったりとした落ち着きとエレガントさがあります。
このアンプの宣伝キャッチコピーは“ワイドレンジDCアンプ”となり、割とおだやかなスタートでした。幸い、大ヒットの始まりでした。
次は、上級クラスのプリメインアンプの商品化との関わり合いでした。
やはり、“AU-607”を進化させただけでは、アンプ業界での大ヒットは無理だろうと思っていたのは私も前園さんも同じ認識でした。
回路開発責任者のT・Sさんも交えて、どうすべきかを何度も検討ミーテングをおこなったのを思い出します。
開発した新回路は高速応答回路と言うべきもので、他社にないユニークな回路でした。
他社は2段差動回路にこだわって、3段増幅回路には興味を示しませんでした。
ちょうどその頃、フィンランドのオーディオアンプエンジニア、マッテイ・オタラさんがサンスイに来てくれて、講演してくれました。彼はTIM(過渡変調ひずみ)がアンプの音質について重要と力説していました。
T・Sさんは“この回路はTIM低減には有効な回路”と言いました。“それではTIMを宣伝コピーにしよう”と言いだしたのは前園さんでした。
いろいろ、論議を重ねて、“ゼロTIMへの挑戦”がコピーと決定しました。
ダイアモンド差動回路というネーミングの回路は、この回路の2段目がNch/Pchトランジスタが2組の差動回路によって動作するものでした。
この回路のバイアスを初段差動回路から作り出すところも優れた工夫でした。
スルーレートは200V/μSを軽く超えていたので、高速応答と言えるわけです。
その回路の真ん中で、NCHとPCHとがクロスして接続される形をダイアモンド回路と言うことをT・Sさんが説明してくれたので、それなら“ダイアモンド差動回路が良い”ということで、一同、興奮しました。
“でも、ダイヤトーンと問題を起こすのでは!?”と言う心配から、“それなら、ダイアモンド差動にすれば問題なくなる!”との結論で、この名前を商標登録*2しました。
前園さんは満足と意欲とが混じった表情をされていました。
*2:おなじような言葉でコロンビアと言う国名との差別から“日本コロムビア(株)”となったそうです。
幸いなことに“AU-D907”は大ヒットしました。
私の発散的性格のためか、私は宣伝部の仕事にも口を出し、さらにはステレオサウンド雑誌広告のプラン造りと撮影立ち合いまでしてしまいました。
ここまでできたのは、前園さんが私の行動を黙認してくれたからです。
結果として、ステレオサウンド広告人気投票で、TANNOYのTEACに次いで第2位になりました。
宣伝部の担当者の手柄になったので、宣伝部の雰囲気も良くなったと聞きました。
そして、勢いをかって、私はD907の限定バージョンを造るべきと主張したら、それが通ってしまいました。
商品力としては、初めて、シャーシに銅メッキしたことでした。これは当時の技術部リーダーがやってやると言ってくれたので実現しました。そのコンセプトは、アースに流れる高周波電流の流れが銅の表面を流れるので汚染されない、というのが、私の提案した銅メッキメリットでした。
徹底するために、ネジも銅メッキを採用しました。その後、銅メッキシャーシの流れは各社も追随し、特にマランツは現在でも採用しています。
ちなみに販売予定台数は1000台としました。すぐに、前園さんは、販売を円滑に進めるために広告に俳優を使おうと言い出しました。
“どなたにするんですか?”、“高島忠夫だよ!ジャズ好きな明るいキャラクターがいいんだよ!”さらに、“奥さんが寿美花代だし”と前園さんは続けます。
そして、“平野君、一緒に行ってくれんかね?”と言われて、私のミーハー心が動き、関係資料を用意して、高島忠夫さんの自宅を訪問しました。
勿論、アンプを持参しました。応接間に通され、奥さんの寿美花代さんがコーヒーを入れてくれました。
現在ではベテラン俳優の息子さん達は、まだ小学生のやや太めのボーヤでした。奥さんは”息子達は太り気味で困った”などとおっしゃっていました。
高島忠夫氏は元ドラマー出身の俳優でしたから、音楽に詳しく、オーディオにもそれなりに応答してくれました。いろいろとコメントを発して貰い、何とか、宣伝新聞の内容を埋めるだけのコメントは取れました。
取材を終ったところで、高島忠夫氏は“ボクがCMに出た日本熱学(株)は倒産してしまったけど、あなたの会社は大丈夫だよね!”と、ぽつりといわれた
(古い方なら思い出されるでしょうが、1部上場の日本熱学は1974年倒産、その後、破産して消滅しました)。
いずれにしても、前園さんはいつも自分が第一線に出ていくことをモットーとしていました。
私もその気があるので、理解できました。また、好きでないと、できないことだったと思います(嫌いじゃできない)。
この限定アンプは瞬く間に1000台を売り切り、追加生産してトータル5000台を大人気のうちに完売しました。
この方式の回路は特に高域のひずみ低減に効果的でした。けれども、イマイチ、回路技術的で一般受けが難しそうでした。
特に、私の発案で、H・Sブラック博士(NFB発明者)が存命であったので、この機会に回路発明者T・Sさんにアメリカに行って会っていただくことは画期的なことだったかも知れません。けれども、やや専門的で自己満足的でした。
(このことは、2019年11月にアメリカサンスイ社員だったI・Fさんに会って会食したとき、“ブラックさんのころへT・Sさんを連れて行ったのは私ですよ!”と言ってくれた。懐かしかった!)。
ベル研究所はニュージャージー州にあったので、ブラックさんはニュージャージーに住んでいたのでした。
一方、前園さんは、このアンプの景気づけに、CMソングを創ろうと言い出しました。“北の宿から(都はるみ)”で大ヒットを飛ばした小林亜星さんに作曲を頼もうというものでした。
特に反対意見もなく、CMソング“聴きに来ないか!”ができてきました。CM専門男性歌手が歌っていて、さわやかな感じの良いものでした。
さっそく、TVCM等でやってみたが、特に反響がなかった記憶があります。私のところにマスターコピーテープ(5分もの)が一時ありましたが、もう見当たりません。
それでも、フィードフォワードアンプは、立て続けにマイナーチェンジをおこない、売り上げを維持しました。
そのなかでも好評だったのはMCトランスのプリメインアンプへの搭載でした。
これは私の発案で、古巣タムラの仲間に頼んで、徹底ヒアリングにより仕様を決めました。
トランスに詳しいということで、サンスイのアンプ技術責任者はMCトランスのことは全部私に任せてくれた。
“MCヘッドアンプよりMCトランスの評価は高い”という先駆けとなりました。
スーパーフィードフォワードの後継回路開発は、この技術から離れてバランス増幅回路にしようと言い出したことは、オーディオ史に述べてありますので興味のある方はご覧下さい。
バランス増幅回路の原器が完成したことが上層部に伝わると、担当取締役から、“AU-607”から上位のアンプ全部に搭載するからと言われて、パワートランジスタは4ペア最低要るし、材料費アップが確実でした。ですから、何としても、大ヒットさせないといけなかったのです。
またもや、新回路のネーミングについてのミーテングに関係者が集まりました。
私は“バランス増幅”という意味をネーミングに加えてくれれば良いという意見でした。
前園さんは“Xバランス”がいいよ!“と言い出しました。前園さんの“X”好きはまたかと私は思いました。以前、“AU-X1”のネーミングのとき、私の“AU-D1”案を退けて、“AU-X1”にするとしたことを思い出しました。
結局、新回路ネーミングは“Xバランス”に落ち着きました。
今でこそ、“バランス”は高級アンプの必須要項なりましたが、いまだに、本当の“バランス”について理解している回路エンジニアは少なく、BTLと同じと誤解している方が多いです。
“Xバランス”回路は、とうとうサンスイ終焉まで続いた回路になってしまいました。
そうこうしているうちに、社長が交代となり、私は退職して新会社を興して活動を始めました。
おそらく、新社長の方向性に合わすのが難しいと思われた前園さんは、しばらくしてサンスイから離れました。
同じ時期に“AVEX”を起こした依田さんもサンスイを離れました。
私は超多忙だった時期が長かったので、前園さんにお会いしたのは、10年以上の年月が経っていました。
お会いしてお話を聞くと、以下のような内容でした。
1987年、オルトフォンジャパン社長の就任式にはデンマーク大使、王貞治さんが駆けつけてくれました。
オルトフォンジャパン設立に際し、資本金、運転資金はオルトフォン本社が出資してくれました。その貸付金利は10%を超えていました。
そして、前園さんは“MCカートリッジだけではとてもやっていけない”と考えたいたとき、ちょうど、7N銅の開発成功の業界新聞の記事を眺めて、MCカートリッジのコイルに高純度銅ケーブルを採用しようというアイディアがひらめいたそうです。
素材メーカーは使用量が少なくても、売ってくました。
オルトフォン本社は当時、そのような考えはまったくヨーロッパにも、カートリッジメーカーにも無かったので、賛成してくれず、責任を持つからやらせてくれとの交渉で高純度銅コイルのMCカートリッジが誕生しました。特に、創業90、95周年の記念限定モデルには、銀メッキ付き6N銅コイルMCカートリッジが誕生しました。
ヘッドシェルには漆塗りとか、樹脂とウッドとの混合剤を採用するなど、常に話題を作っていました。けれども、この程度のビジネスだけではとても採算に合わないことを前園さんは自覚していました。
前園さんは思い切った商品をオルトフォンブランドで商品化することを実行しました。それはスピーカーケーブルを先頭にして、電源ケーブル、RCAケーブルと次々のオルトフォンブランドで売り出すものでした。
オルトフォンイメージとオーディオケーブルとは結びつけたコンセプトにはならないのではと、私は危惧していました。
その心配は全くなく、オルトフォンケーブルはケーブルビジネスのなかで有力ブランドになっていました。
前園さんは“それはオーディオ対する情熱とセンス!”と周囲を煙に巻いていました。
そして、“10年程度で、融資金は完済したよ!”と私に言いました。
そして、20年、社長を勤めあげて卒業のかたちになりました。
その後の“ゾノトーン”での活躍は皆さんが知る通りです。
前園さんは常に先頭に立ちましたが、周囲をまとめて“チーム一丸”タイプではありませんでした。
常に、“前園さん”が目立ち、後継者はまったく存在の影すらありませんでした。
うまく“ゾノトーン”が継続発展しているのは息子さん(前園力さん)の人間力の素晴らしさです。
最後に、“俺は、もうじき80才になるんだよ!平野君!”とTELを交わした4週間後、前園さんは発病してしまいました。
言語中枢にダメージを受けたため、お得意の弁別が不可能になりました。
その間、息子さんに“ノウハウ”、“構想”などを伝えて、84才にて、お亡くなりになりました。
オーディオ一筋、やりたいようにやって、満足なされた人生だったと思います。
そうそう、オルトフォンジャパン社長当時、毎月、コンサートイベントを開催して、名物行事になっていました。存命だった“永六輔さん”も出演されていました。
中野にある“アナログ庵”を訪問したとき、前園サウンドを聴かせてもらいました。
15インチウーファーをベースとしたJBLサウンド風と言うべきもので、豪快サウンドでした。
ある意味、菅野さんのとこのJBLシステムよりも大きなスケールのサウンドでした。
合掌