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イシノラボ/マスターズ店長の連載

第1弾 日本オーディオ史

第5回 スピーカの設計とオーディオメーカーの隆盛(後編)

サイゴン陥落によって、ベトナム戦争が終わった。ベトナム特需が無くなったオーディオ各社はこれに代わるビジネスとして、アメリカへの直接輸出にチャレンジした。オーディオ各社とも、アメリカ本土に子会社を設立して、本格輸出に乗り出した。本拠地はロスアンゼルス、NYあたりであった。人材は米軍向けだった方々を振り向けた。1960年代末から1970年代のアメリカもオーディオが盛んな時代であった。現地での小売価格は、ディストリビュータ(代理店)、リイテーラー(販売店)のマージンを見なくてはならないので、米軍に売っていたような利益は1ドル=¥360でも、上がらなくなった。それでも、いち早くFM多局化に踏み切っていたアメリカではステレオレシーバーはフィッシャー、スコット、シャーウッド、マランツなどのアメリカ勢と競争して、日本製は 何とか売れてきた。ところがスピーカーはどうにも売れないのである。レップ(近年、日本にも取り入れた制度で、販売代理人で、売上に応じて、コミッション(手数料)を払えばよい。ルートセールスを雇う必要がない。7%くらいが常識であった。ユダヤ人が多く、まず、ブラック、イエローはいない。)に聞いてみると、ジャパニーズサウンドはハイ上がりで、評判が良くないと言う。高域がノイジーだと言う。

そこで、サンスイではアメリカ市場に通用するスピーカーを開発しようということになって、プロジェクトチームが作られた。入社2年目のわたしは年食っていたせいか、リーダーにされた。まずは、相手の出来栄えを知ろうということになって、NY支社に売れているスピーカーを送ってくるように頼んだ。送ってきたのは、KLH MODEL6、アドベント、ダイナコA25の3機種であった。能率は86db程度で低い、大きくないのに低音、中低域の再現性がスムーズ、何よりもうるさくなく、落ち着いたサウンドで米軍向けのメチャクチャのスピーカーとは大違い。

ダイナコA25はしばらくして、日本でも大ヒットとなった。わたしがすばらしいと思ったのはKLH MODEL6で、これは今発売しても、通用するくらい、スムーズで、バランスが良い。これらのスピーカーを調べていくと、キャビネットは密閉式(A25はダンプされたバスレフ式)で、中には吸音材がいっぱい入っていて、これが振動質量となって、スピーカー自体のFoを下げていることがわかってきた。

ウーファの振動板はペーパーなのに、けっこう重い。どうもコーン紙な何かを含浸しているらしい。これに匹敵する含浸材探しが始まった。試行錯誤の繰り返しで、トランスの充填材でアスファルトを精製したようなもので、K43という、ピッチを溶かし、そこにコーン紙を浸すと、ピッチはコーン紙にしみ込んでいき、5gのコーン紙が19gくらいまでに重くなり、かつ、しなやかになることも分かってきた。まだ、JBLのあの白い塗り物の正体が分からなかった時代であった。ウーファはこれで行こうということになったが、ピッチの臭いが体に浸み込んで、事務の女の子には嫌われた。

アメリカ支社に支社に聞いてみると、アメリカのオーディオの本場は東海岸にあるという。JBLやALTECは家庭用ではなく、プロ用のイメージが強かった。概して、アメリカ人にとってはにぎやかな過ぎるサウンドであると言う。

一般オーディオ好きの方向けのスピーカ価格も結構安く、とても材料費は充分に掛けられない。ミッドレンジはコーンタイプで、吸音材を多めにして、能率を下げた。ツイータにはホーンタイプは音質がきつすぎて、とても受け入れられないと言う。日本でもホーンからハードドームが主体になりつつあった。

アメリカ向けには、開発出来たばかりのソフトドームを採用した。ネットワークはシンプルな構成として、コストダウンした。これで何とか、対抗できる原価に入り、小型から中型まで3機種シリーズとしてアメリカに乗り込むことになった。1971年のサマー・コンスーマー・エレクトロニクス・ショウに発表することになった。

初めての海外出張、羽田空港から、今はなきパン・アメリカン航空機で、飛び立った。LAではJBLを見学させてもらった。当時はノースリッジではなく、もっと街中寄りで従業員も350名くらいであった。エッジワイズ線によるボイズコイル巻き作業は機械で200mmくらい連続して、巻き寿司のようにして作っていた。それを規定の巻数になるように輪切りして、1個のボイスコイルにするのであった。今でもこのようなやり方は日本ではやっていない。ホーンドライバーのダイヤフラム成型は圧縮空気でプレス機を少しずつ、動かし時間をかけて、やっていた。マグネットの着磁はアルニコのせいか、これもじわじわ、磁界をかけていた。例のパラゴンは完全な手作業で4人のチームでキャビネットを作っていた。

会社の玄関に全社員の名前が彫り付けてあって、皆さん、誇りをもって仕事にあたっていたようだ。サンスイは輸入代理店であったので、けっこう、細部まで見せてくれた。現在のJBLはハーマン(ユダヤ人)さんの傘下で、大きく成りすぎたが、魅力ある商品を頑張って開発していると思う。JBLは今でもヨーロッパでは人気なく、アメリカ本土でもそこそこ、アジア地区が販売の主力であると思う。

LA支社では倉庫でレシーバーを見たが、物凄い数量(数千台)でこれがアメリカで買われるとは、凄い国だと思った。

LAからショウ会場であるシカゴに飛んだ。6月のシカゴは暑くなり始めの季節で、会場のコンベンションホールは当時のオーディオフェア会場の晴海とは大違い。東京ドームくらいであったし、しかも地下にも展示会場があった。始めてのこともあって、ともかく、圧倒された。

そこにプリプロ品のスピーカーを展示して、反応を待った。当時のCESは一般の方は入れず、全国から、バイヤーが集まり、買い付け交渉の場でもあった。日本勢は右肩上がりで、韓国とか他のアジアブランドは皆無であった。我々のスピーカーの評判はまずまずであったが、ネーミングが良くないとレップに言われた。AS−100、200、300と3機種であった。ASとはアメリカスピーカーのつもりであった。ところがASとは俗称で肛門を意味して、ホモが多いアメリカではタブーの組み合わせ言語であったのだ。現地の支社の方々のアメリカへの浸透がまだまだであったのかも知れない。

これにはがっくり、いまさら、モデル名も変えられず、生産計画の変えられず、売り切りデスコンを覚悟した。以後、現在まで、アメリカで大ヒットした日本製スピーカーはない。

シカゴからNYに飛び、マンハッタンのオーディオ店を訪問しては、アメリカの空気を吸い込んだ。当時は外貨持ち出しが500ドルだったので、安ホテルですまし、浮いたお金で、レコードを買い込んで、2本の洋酒をお土産に帰国した。この頃のサラリーは¥5万くらいだった。3週間のアメリカ出張費はトータルで¥80万かかった。勿論、シートはビジネスクラスでファーストクラスに近い。エコノミーシートなどはその頃はなかった。

帰国してみると、サンスイは掛川市のピアノ工場跡、4万坪の敷地を買い込んだという。ベトナムバブルのおかげである。ライブドアも楽天もITバブルのおかげ、どの業種もピークはあるものだ。

あまりに広いので、輸出倉庫、研修センター、野球場を作ってもまだ、空き地がいっぱい。そこで、スピーカー設計、プレーヤー設計陣が掛川に移転することになった。わたしは諸事情で東京地区にとどまることになった。

その頃、サンスイが発売したQS−1という、2chのオーディオ信号から4ch信号を創成して、4隅にスピーカを配置して聴くという製品が爆発的に売れて、オーディオ各社はこれを買い込んで、4ch時代になりそうな機運が高まった。1972年その開発部門に移った。

今回はここまで、日本、アメリカ、ヨーロッパを巻き込んだ、4chでの驚くようなおはなしを期待下さい。


2006年4月16日掲載


この記事は、2005年11月9日に”WestRiver(ウエストリバーアンプ)”のサイトに投稿した記事をベースに書き直したものです。

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