イシノラボ/マスターズ店長の連載
第1弾 日本オーディオ史
第24回 アメリカ向けプロ用アンプの開発とその失敗−後編
機種の企画と、B−1,P−1,E−1の開発
いよいよ、アメリカ市場のプロ用アンプジャンルに進出することが会社として決定した。
アメリカ支社はプロ業界からの人材を雇ってくれ、セールスエンジニア業務を担当することになった。それで、どのような機種を開発すれば良いかという判断は、現地のセールスエンジニアとアメリカ出張した私にほぼ委ねられた。
まず、パワーアンプが一番可能性があった。その頃のレコーディングスタジオは自前で組んだ大型システムで、ほとんどがチャンネルアンプシステムになっていた。モニターシステムで3台のパワーアンプが売れることになる。パワーは300W以上は要求されたし、4Ω負荷でも大丈夫な、タフであることが要求された。その分、アンプの放熱が大変になるが、クーリングファンによる強制空冷は許された。(家庭用ではファンの騒音を気にされるので、許されなかった。マッキントッシュのパワーアンプはファンが装着されているが、家庭用の使用ではファンが回ったのは見たことも聞いたこともなかった。)
現在のスタジオではヤマハNS−10Mの小型SPでこじんまりモニターしているようだが、当時のアメリカのスタジオでは地響きを立てるような凄い音量でモニターし、プレイバックしていた。また、スピーカユニットも、周波数によってはインピーダンスが変動するので、音楽ソースでは2Ωになっても保護回路が動作しないことが要求された。
以前、サンスイではBA−5000と言う、マッキントッシュパワーアンプを範としたオートフォーマー付き300Wアンプがあった。これはタフで音質も好評であったが、あまりにも大きく、重く、また、マッキントッシュアンプはアメリカではホーム用アンプとして扱われていたので、このような方式を採用することは出来なかった。
そこで、ダイアモンド差動回路を採用し、パワーステージは200Wのコレクタ損失の大型トランジスタの3パラ構成という構成となった。
問題はプロテクション回路にあった。プロ用パワーアンプのトップブランドである、クラウンアンプのデモでは、最大パワーを出しておいて、出力の両端をハンマーでショートさせ、それでもアンプが壊れないことをやっていた。これをショートテストいうが、現在でもオーディオメーカーではせいぜい10Vくらいの出力で出力をショートして、アンプの保護回路が動作して、アンプが壊れなければ良いことにしている。
300W/8Ωで出力ショートと言うと、50Vくらいの交流電圧をショートすることになる。すさまじい電流が一瞬、アンプ内に流れることになる。
そのような課題は先送りして、とにかく、プロ用パワーアンプは300Wを出すことにして、設計スタートした。勿論、入力はバランス入力であった。このプロ用パワーアンプはB−1とネーミングされた。
次のモデルはイフェクターとして、パラメトリックイコライザを商品化することとした。帯域は4帯域として、当時、売れていたORBAN PARASAUNDブランドの商品を範として、設計開始することとした。
内部の部品、特にボリウムは日本製ではなく、アレン・ブラッドリー社のカスタム品をアメリカへ注文して、これを搭載するという、使いたい部品はすべてOKであった。キャノン端子もアメリカ製、スイッチクラフト製を採用した。
キーパーツであるユニットアンプは小型のモジュールを開発して、±30V以上の電源電圧で動作させ、出力は+30dBm以上でもひずまない性能となった。このモデル名はP−1となった。入出力は当然、バランス伝送であった。
次の機種はプロ用のフォノイコライザーとしたが、アメリカプロ業界でもそれ程売れる可能性は無かったが、プロ用として、アメリカで高く評価されれば、日本のマニアは買ってくれるという皮算用であった。3系統のフォノ回路に対応して、プロ用らしく、照光プッシュスイッチで操作するという、2007年に発売されるEMTの新製品、プロ用フォノイコライザーのようなマスクであった。これはE−1とネーミングされた。送り出しはバランスOUTであった。
キーパーソンの来日と、プロジェクトの崩壊
プロ用アンプは3機種商品化することとなって、設計は順調に進行した。量産試作機の段階になって、アメリカからセールスエンジニアが来日して、一緒にチェックすることとなった。ケビン君というファーストネームであった。
彼は、セールスマネジャーとしても活躍することとなるので、期待に溢れた様子であった。E−1,P−1については特に異論もなく、問題も無かったが、それほど売上は上がらないと言っていた。これは予測どおり、アメリカで評判を高め、日本のマニアが買ってくれることをもくろんでいた。
一番のターゲットはパワーアンプであった。電気的特性、サウンド(音質)に彼は納得してくれた。最後に、最大パワーを出したとき、ショート試験をしたいと言い出した。こちらは、社内基準、10V出力でショートして、ミュートリレーが動作してアンプを保護してくれたので、さほど心配していなかった。
彼が持参したテープ音源で、JBLのSPを朗々と鳴らし、耳もつんざくようなでかい音量になったとき、彼は太いスピーカーケーブルの先端をショートした。その瞬間、パワーアンプからは煙が上がった。保護リレーは動作した。何だろう?!
調べてみると、パワートランジスタが破壊していた。
同じようなテストを古いBA−5000でやってみると、マッチングトランスが電流制限するし、また、前段ドライブ能力(スルーレート)もそこそこなので、壊れることは無かった。
ところが、B−1の場合、ドライブ段のダイアモンド差動回路はスルーレートが極めて高いので、パワートランジスタを破壊するまでに、強烈にドライブしてしまうのが原因とを分かった。保護リレーの動作時間は1ms(1/1000秒)程度なので、間に合わないのであった。従来のショート試験では、何とか持ちこたえていたのであったと判断した。このような事態に対応するには、パワートランジスタが破壊に至らないように電流制限回路を付けることは有効であったが、普通の電流制限回路では音質が犠牲になるので、どうしてもそのような対策を取る気が起こらなかった。
ケビン君は、フルパワー時にショートで壊れてしまうようなパワーアンプは売れないと主張し、日本サイドはリレーの応答速度を早くしたりしたが、どうしても彼は満足しなかった。彼は帰国後、サンスイアメリカ支社を辞めてしまった。
アメリカ支社ではプロ業界に精通した者は居ないから、どうにもならない。日本サイドも分からないから、当方を叱責することもなかったが、自分のプロ業界への認識の甘さを改めて悔やんだ。他のP−1,E−1は問題なく商品となってきた。しかし、売ることが出来ないから、製品は宙に浮いてしまった。仕方なく、日本国内でひっそりと初ロットだけ売って、あとは販売終了とせざるを得なかった。
商品的には、特にP−1の出来が素晴らしく、惚れ惚れとする性能、音質であった。海外からの部品の輸入の労を惜しまなかった資材部門、面倒なサービスマニュアルを製作してくれたサービス部、どこにも、すまない気持ちでいっぱいであった。
しばらくして、B−1,P−1,E−1の電気設計担当者の3名が退社すると言い出した。止めようも無く、特にP−1設計担当のK・Kさん(現在もお付き合いさせていただいているが、)は優秀な設計者で、会社としても、私としても大変なダメージであった。
約2年に渡ったこのプロジェクトは、無残な結末に終わった。わたしのファイルには今でも、この3機種の回路図が大事にしまわれている。
その後の日本製プロ用アンプはアメリカスタジオ市場に入り込むことはなかった。ロサンゼルスオリンピックでRAMSA(松下)がスタジアムのPAに採用されたのは大変立派なことだと思う。
日本国内でもスタジオ用は海外製、SR/PA用ではヤマハ,RAMSA,TOAが多くなってきている。特にこの分野では軽量・ハイパワー・低価格が要求されて、音質は二の次である。最近では、デジタル(Dクラス)アンプの台頭で1kWパワーも珍しくない。
そうこうしているうちに、プリメインアンプに新機軸を打ち出すことが必要な時期になった。
次回をお楽しみに。
2007年2月17日掲載
2007年5月15日訂正 ・・・ プロアンプ開発時のアメリカサイドの担当者はデビット君ではなく、ケビン君でした。高橋暹氏のご指摘で思い出しました。間違いをお詫びし、訂正致します。
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