イシノラボ/マスターズ店長の連載
第1弾 日本オーディオ史
第46回 国内オーディオ産業の成長の大手の参入・撤退
2011年の新年を迎え、つたない文章をお読みくださることに深く感謝します。
セパレート・ステレオシステムの出現と退潮
1970年代に入って、国内でもいよいよステレオが普及し始め、カラーTVと共に、ステレオをシステム(電蓄)ではなくセパレートステレオ(パイオニアの造語)が各家庭のステータスシンボルになった。各家庭の床の間にセパレートステレオが据え付けられていることが、日本人の満足のひとつでもあった。
そして、1968年〜70年代のTV番組は歌番組(歌謡曲、演歌)が全盛であった。TV番組のCMにオーディオメーカーが数多く登場した。
筆者が山水に入社した頃、セパレートシステム設計課があった。美しい格子のスピーカグリルが魅力であった。最初は、単品アンプ回路を転用したり、ベルトドライブのプレーヤーを載せてセンターBOXを形成させていた。サンスイのセールスポイントは他に、アコースティック・コントロールと称する周波数帯域コントロールを内蔵して、ルームアコースティックにマッチさせようとするものであった。
このようなサンスイ・セパレートシステムの雑誌広告には、王選手夫妻、永六輔ファミリーと有名人が登場した。それほど当時は、ステレオは関心事であった。
その中身は段々とエスカレートして、ついにチャンネルアンプシステムとなり、セパレート・ステレオシステムでありながら、3chアンプシステムと銘打って、6台のアンプを内蔵するまでになった。ここまで来るとクレージーであり、その後、サンスイはセパレートステレオ製品から撤退した。
コンポステレオ市場に大手家電の参入のきざし
1970年代は、まだまだステレオは多くの人々の関心事であったので、ステレオ製品の主体はコンポになっていった。
その頃のオーディオ専業ブランドと言えば、パイオニア,トリオ(現在のケンウッド),アカイ,TEAC,オンキョー,LUX,スピーカのダイヤトーン,コーラルあたりであった。そこに様々なブランドが参入してきた。
まず、ビクター,コロムビア(現在のデノン)は、電蓄ブランドからの参入。SONY,松下(テクニクス)は、オーディオ半導体や部品の面から参入。ヤマハは楽器面からの参入。更に、大手家電が新ブランドを引っさげて参入してきたのであった。
東芝はAUREX,日立はLo−D,シャープはオプトニカ,サンヨーはOTTO,NECのジャンゴ(後にオーセンテック),遅れて、京セラ。
これらのブランドは、親会社が大手会社のため、総合力や資金は豊富だったので、儲かるとあらば参入するのは、資本・市場主義の面から考えれば、浅はかとか安易ということはできなかった。
大手のSONY,松下は、古くからオーディオをやっていたので新規参入とは言えず、基本的なオーディオ技術は、オーディオ専業ブランドより優れていたと思われる。
当時(1977年頃)のサンスイでは、このような事態について、経営企画部門が音頭取りで、どう対応すべきかの会議が開かれた。
会議開催部門は“オーディオ産業は、大手メーカーが急速にシェアを伸ばし、オーディオ専業メーカーは経営を圧迫される!”、対策としては、“更に先を読んだ新ジャンルの開拓が必要だ!”という意見であったし、予測であった。
具体的には、“カー産業の成長が物凄く、カー・オーディオ産業が有望!ここに参入すべき”と言う推測、意見も添えられていた。私は、この方向に、そうだと思った。いつまでもホームオーディオだけに頼っていられない!と言う気持ちがあったし、趣味産業はそれほど大きな産業にはならず、ほどほどのスケールに落ち着くと思っていた。しかし、実際は、それよりはるかに早いスピードでシュリンクしていったのである。
大手家電のオーディオコンポへの取り組みは、そして、どうなったか?
当時、サンヨーやシャープの参入は場違いかな?という意見が大勢であった。
けれども、サンヨーはアメリカの有力レシーバーブランドであるフィシャーを傘下にして、アメリカで攻勢をかけてきた。一時期、かなりのビジネスを展開していた。
更に、一時、フェイズ・リニアの創業者、ボブ・カーバーの発明によるカーバーアンプの輸入をおこなっていた。このアンプは軽量・ハイパワーで、現在のDクラスアンプに比較できるくらいであったが、ほどなく姿を消した。その原因は、やっぱり音質がわずかに及ばなかったように思える。
サンヨーはオーディオの表舞台から早めに撤退したが、長らく、厚膜ICによるオーディオパワーアンプ・モジュールを作り、システムコンポメーカーに供給したし、最近では、DクラスアンプIC関係も手掛けているという情報もある。
シャープは早めに撤退したが、一時期、ガウスのユニットの輸入業務をやっていた。ガウスはJBLのOBの人材により興したスピーカユニット会社で、バート・ロカンシー,ゲイリー・マルゴリスが一時期、ヘルプしていたようだ。
その後、長いブランクを経て、2000年当時から1ビット方式による高速スイッチングによるデジタルアンプの研究を始めて、その成果が製品となったが、ほどなく終了したようだ。その開発に携わったエンジニアが独立してニューブランドを興して、デジタルアンプの販売をスタートしたというニュースもある。頑張って欲しい。
東芝は、横浜地区にAUREX事業所を構え、独自のノイズリダクションを開発したりして、活発であった。故、金子英男さんがアドバイスした優れたコンデンサ(ラムダコン,日立コン)を大量に投入したセパレートアンプは、パワーアンプが故障が多かったようであるが、プリアンプ・ラムダ88はヤマハC−2スタイルでコンパクト、その電気的性能を最近測定した体験があるが、驚くほど優秀であった。そのサウンドも透明で清らかで、現在でもその愛用者は少なくないと思う。
スピーカも金子さんの思想を取り入れた無共振を目指したが、スピーカユニット振動系が重くなり、そのサウンドは、クラシックを聴く限り素晴らしいものがあったが、ジャズ、ポップスでは生気が無かった。
また、CDプレーヤーにおいては熱心であったが、その故障に悩まされた。わたしも、音質の評判が良いので買ったが、すぐに壊れてピックアップを無償交換、その後も故障が多く、廃棄せざるを得なかった。
けれども、オーディオに掛ける情熱を持った社員が少なくなく、オーディオ部門からの撤退は惜しまれたし、音響学会の音響心理関係で活躍された方もおられる。
さらに、故人になられたが、2名の方がオーディオ評論家として独立されて活躍されたことは、記憶に残るところである。
後年、AUREXオーディオ事業部長だった稲宮さんがサンスイの社長に就任したのは因縁を感じる。
日立中央研究所では、音響心理の研究を中山氏が中心となって進められ、ひずみがもっとも音質にとって重要という結論を引き出した。
そこで、日立はブランドをLo−D(ローディー:LOW DISTORSION(=低歪み))として、ステレオコンポビジネスをスタートすることになった。その重要な材料として、日立の半導体部門では、優秀なMOSFETを開発して、それを搭載したパワーアンプを発売した。HMA−9500シリーズであった。
その重厚で反応の早いサウンドは、故、長岡鉄男氏の愛用機にもなって、大いに人気が上がった。確かにそのとおりで、現在も評価が高く、スクラップになるようなことは今なおないだろう。故障部分はバイアス設定部分の抵抗モジュールであることが多く、この部分を独立した抵抗で造れば、立派に再生する。
ギャザードエッジを採用したスピーカーシステム、HS−500は、今なお評価が高い。
また平面スピーカでは、革新的な方向を示した河村氏の活躍を思い出す。
しかし、いろいろ頑張ったが、採算は悪化して撤退した。その代わりというか、コロムビアの筆頭株主となり、実質的に影響下においた。
その後、DENONはリップルウッド資本下に移され、さらに別の資本系列下で頑張っているのは、皆さんご承知のとおりである。
友人に日立オーディオ部門に在籍した方がおられるが、今なお、大変なオーディオマニアである。MJのリスニング・ルームに登場された。
NECはジャンゴではぱっとしなかったが、後にオーセンテックブランドを作り、A−10シリーズで評価された。このアンプ開発スタッフは、サンスイOBが中心となったとも聞いている。
京セラはオーディオに進出しなくとも!と思ったが、当時の空気で、やるべきと稲盛さんが判断したのであろう。特徴はセラミックボードの採用で、防振性能を重視したようであった。その後、採算を少しでもカバーしようとして、オーディオ機器OEM業務の黒子に徹した時期もあった。また、一時ブームになったパーソナル無線では、有力OEMメーカーとなった。
このようにして、悪く言えば、大手会社はオーディオに群がったが、やがて撤退していった。オーディオ専業会社も業績悪化に悩まされ、事実上、消滅せざるを得なかったり、外資にゆだねたり、合併したりしている。この動きは海外もほぼ同じようである。
そうなるとオーディオ趣味はやっぱり趣味であって、趣味がマイナーになれば作り手側もマイナーで、ユーザーの細やかな要望、ニーズに応えるべきと思ってしまう。
それで、オーディオ退潮のきざしはどこにあったかと言うと、皮肉にもCD登場にあったと言う方もおられる。
次回はCD登場前夜、以後について、述べてみたい。ありがとうございます!
2011年1月11日掲載
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