イシノラボ/マスターズ店長の連載
第1弾 日本オーディオ史
第49回 ベトナム戦争後の対米オーディオビジネス
アメリカ国内のオーディオビジネスの実態
米軍52,000人の死者を出したベトナム戦争は、アメリカ軍の南ベトナムからの撤退、北ベトナムの南ベトナム吸収によるベトナム統一で、1975年集結した。その後のアメリカはまだ抜群の経済力を持っていたが、段々と産業が海外、とりわけ日本に移転するようになっていった。そうして1980年代に入って、次第にアメリカの経済力、産業力は衰えを見せ始めていた。
そのような時期、日本のオーディオ各社はPX(アメリカ軍需用)ビジネスが減ってきたので、売上や利益は以前ほど取れなくなってきていた。そこで、各社はアメリカ本土に乗り込んで、本格的に商売をするような体制を取り始めた。
アメリカのオーディオビジネスは日本と異なり、セールスがお店に出掛けて注文を取るというようなやり方ではなく、その地域のレップ(販売代理人)という人物がおり、彼らが与えられたテリトリーのお店を回って注文を取り、レップは手数料を受け取るシステムであった。従って、広いアメリカ全土に販売拠点を作る必要はなかった。
サンスイでは、はじめはNY、しばらくしてLAにアメリカ支社を作った。その後シカゴにも事務所を作り、さらにテキサス方面の事務所も作り、それぞれの事務所にはリージョナル・マネージャー(地域管理者:多くは日本人)がレップを監督し、ビジネスするようになった。そして、毎年開催されるCESと称する大規模な、驚くほど広いコンベションホールには、SONY,パナソニック,パイオニア,ケンウッド,サンスイ,アカイ,アイワ等のブランドが堂々と展示された。アメリカンブランドの衰退は見るも無残であった。RCA,GEはなく、スコットもなく、残ったフィッシャーは、サンヨーに買収されそうな状況であった。
アメリカでは、オーディオビジネスと言っても、ピュア・オーディオのコンポオーディオはごく少数で、多くは、レシーバとスピーカ,チューナー,アンプ,カセットなどを合わせたステレオセット、当時アメリカで言われたワンブランド・システムであった。オーディオマニアではない普通のアメリカ人がこのような商品を買ったのであった。アメリカ内のAM放送局とFM放送局は1万局を超えて存在したし、リスナーもけっこう多かった。
さて、このような状況下では、日本ブランド間の競争も厳しくなってきたし、アメリカの経済もさらに弱ってきたように思えた。 そうして、1985年9月には、アメリカはついに耐え切れず、プラザ合意なる会議で、為替の自由化をスタートさせた。すぐ円は¥360から¥220〜¥260と円高ドル安となり、さらに対米オーディオビジネスは苦しくなってきた。このあたり、私はアメリカにはサンスイ時代に7回出張したので、そのような状況は肌で感じた。
サンスイでは、これまでのような作り方ではコスト高となって先行きやっていけないと、大号令を発してコスト削減の工夫を重ねた。サンスイのその頃は、労使関係は上手くいかず、工場工員の人件費が他社に比べ高くなっていたのも弱みであった。その具体策は“スーパー・コンポ”と称する組立工数や材料費を削減したアンプやカセットデッキ群であった。あきらかに安いコンポであり、日本市場では売れないような安物の感じであったし、事実、そうなっていった。具体的にはプリント基板のサイズを横幅196mmとして、定尺のプリント基板からも無駄を少なくする寸法であった。コネクタも極力廃し、マザーボードと称する基板上にアンプユニットをドーター(娘)基板として、自動半田槽でいっきょに組み上げてしまう方式であった。従って、スーパー・コンポの配線は驚くほど少なく済んだ。サンスイのプリメインアンプでもこの方式の採用はうながされ、採用したが、重要部分は配線処理したので、それ程のコストダウンにならないし、性能や音質の低下も起こらなかった。
さて、話をアメリカに戻すと、これらのワンブランド・システムのうち、スピーカユニットは台湾や韓国から(当時、中国製は使い物にならなかった)輸入して、キャビネットはカルフォルニアで製造し、そこにSPユニットを取り付ける製造方法を採った。日本からの輸送コストをセーブする方法であった。当時は、まだアメリカは、ローテク製品を組み立てる採算点を持っていたのであった。当然、工場ラインは黒人やヒスパニック系の低賃金ワーカーがほとんどであった。それでも、サンスイ・アメリカ支社は、1980年代の半ば、多くの売上を上げて、サンスイの経営を一時支えた感があった。その頃、アメリカ支社の社長は、後年、エーベックスを創業したT・Yさんであった。私は、T・Yさんの経営手腕によって、かろうじて採算が成り立っていると感じて、T・Yさんがサンスイ本社に戻るようなことになれば、アメリカ・サンスイ経営は低落すると感じて、出張報告書にそのように書いたのをいまだに覚えている。その後T・Yさんは、アメリカ勤務が10年以上続いたので帰国した。危惧、予測したように、たちまちアメリカ・サンスイの経営は悪化していった。けれども、サンスイだけでなく競合他社も同じような状況であった。
AV時代の到来
また、当時はVHDによるVCRが出回って、AVが盛んになってきた。VCRも驚くほどアメリカ内では安くなっていった。アメリカ人は元々映画好きであったから、家庭で映画をサラウンドで楽しむドルビーやルーカスフィルム方式がはやってきた。ハードメーカー各社はライセンス契約を結び、いわゆるAVシステム主体の商売に変遷していった。アメリカ向けのオーディオアンプは、AVアンプと形を変えていった。レシーバーも組み込んだAVレシーバーも注目されるようになってきた。設計面から言わせれば、VIDEO回路の切換、ドルビーなどの音声回路、サラウンドスピーカなども有するAVアンプは複雑であり、マイコン内蔵でなければ成立しないというピュア・オーディオからかけ離れていった。
アメリカ国内では、新しくインストラーと称するホームシアター装置をリビング・ルームに設置するビジネスが誕生した。ホームシアターをやろうとすれば配線は膨大となるので、これらを綺麗に処理し、セットするビジネスになったのであった。それに、アメリカではAVのケーブルでのシグナル配信(優良ケーブルTV等)もどんどん拡張していった。このあたりを見て、わたしの出番はアメリカ向け製品には、ない!という気持ちになった。
また、CD時代となって、レコーディングビジネスも打ち込み系で出来るようになる気配はあった。1970年代には、スタジオロードと言われるほどのLAのレコーディングスタジオは段々と無くなっていった。プロ・オーディオビジネスのスケールも小さくなっていった。それでもアメリカはシリコンバレーが活気を呈してきていたが、これも市場論理で、半導体の生産拠点はアメリカ以外、生産拠点の海外シフトは、すぐそこであった。1990年以降のアメリカの産業がどうなるのだろう!と思う一方、1980年代後半には、”JAPAN AS NO.1“というような著作も出て、日本は”バブル“に突き進んでいく前兆であった。
読んでいただいてありがとうございます。まだ、まだ、続けます。よろしくお願い致します。
2011年10月23日掲載
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