イシノラボ/マスターズ店長の連載
第1弾 日本オーディオ史
第7回 4chステレオの残したもの、その頃のプロオーディオの状況
わたしのキャリアを通してのオーディオ界の動き、独断に満ちた見解が多いと思うが、このような見方もあるということで、眺めていただければ大変ありがたい。何よりもオーディオは好き、であることが重要で、また、オーディオは道楽であるから、いろいろあって良い、というのが私のスタンスである。
さて、4chステレオ騒動は歴史的に見れば”4chステレオの変”という扱いになるのであったのであろうか。それはそれとして、新しいことを広めることは、いろいろ仕掛けても、時代の流れ、ニーズもあるので、思うようにならないことが多いのが世の常である。
4chステレオはシーズ(種まき)からはじめたのだったから、大変であった。それも住宅事情の良くない日本ではやらせるには厳しかった。現在のホームシアターにしても、小型システムでやっている方々がほとんどだと思う。
販売促進策として、考えられるほとんどのことをサンスイではやったように思える。最後のほうでは文化人(例えば、小松左京さん)に集まってもらい、座談会を開き、これからの音楽の楽しみは4chステレオになるとか。有名ミクサーとオーディオ評論の第一人者に対談してもらい、広報誌を製作してまいたり。結局、4chに始まる多chオーディオはシネマ(映画)関係に最適というのがが正解であった。ドルビーさんの一人勝ちだった。それにルーカスとかスピルバーグとかユダヤ人グループがビジネスとして、莫大な富みを築いたのであった。従って、映像の要らない(映像が入ると、イマジネーションが貧しくなる)ハイエンド・オーディオでは多chオーディオの普及は難関がいっぱいなように思える。物事をスタートさせるのはやれば出来る、しかし、やめるのは大変な勇気がいる。(イラク戦争も同じ、)
SONY、JVCも相次いで、4chステレオの商品開発をやめた。
1970年代前半のプロソフト業界
サンスイのQS4ch時代で私が知ったことが皆さんの楽しみの一助になればと思って書く。特に、ソフト業界はコンスーマ向け商品に従事したものにとっては新鮮であった。皆さんもどうやって、レコードを創っているかの姿を知れば、自分の装置から出るサウンドの判定・楽しみ方に参考になるであろう。
この頃、録音方式はマルチトラック録音が普及し始めた。その使い道はほとんどPOPSでクラシックではそれほど使われなかった。ある、歌謡曲のレコードを創るとしよう。
まず、歌詞が出来上がり、曲が付き、そして編曲(アレンジ)されて、どう録音するかの段取りとなる。マルチトラック録音ではミュージシャンは一堂に会すことが必要ないので、まず、ドラマーが来て、リズムマシーンに沿って、リズムを刻む。ギャラを現金で貰って帰る。(その頃、村上ポンタはドラマー石川晶のボーヤ:楽器運び、をやっていた。)次にエレキベースが来て、リズムをヘッドフォンドラムを聴いて、ギター電気出力をダイレクトにコンソールに通して録音する。SAX、TP、トロンボーンなどのホーンセクションが録音する。そのあと、ストリングスの連中が来る。多くはV1が4人、VIIで2人、ビオラが2人、チェロ2人、コンバスはなし。これらをミックスダウンすればカラオケが出来上がる。テープエコーや、鉄板リバーブ、スプリングエコーで響きに艶をつけるし、コンソールでのイコライジングは積極的におこなう。
そうして、ボーカルが登場して、ブースに入って、カラオケを聴きながら、何回かのテークを録る。多くはノイマンU87のマイクが多かった。歌唱力の乏しい歌手には多くのテークから出来の良いところをつないで、ボーカル部分とする。
このような手順を踏むので、レコード会社のレコーディングスタジオだけでは足りず、多くの貸しレコーディングスタジオが出来、繁盛した。特にボーカルは売れ行きの成否を握るので、イコライジング、エコー、リバーブはこてこてにつける場合もあった。この時代はすべてアナログ機器であった。
何回か、レコーディングに立ち会ったことがあった。最終音入れ、出来上がった最終サウンドのときであった。大体、21時頃から始まり、23時頃から本気になり、3時頃、終わりが見えてくる。明け方5時頃、お疲れ様で、シンガー、マネジャーは帰る。作曲者、作詞家、アレンジャーが次に帰る。デイレクタ、ミクサーが6時頃帰る。アシスタントのエンジニアは片付けして7時頃帰るというような、不健康さが普通であった。
マルチトラック録音機は2インチ幅テープ、16chが標準で、AMPEX、SUTUDER、3M、スカーリーなどいろいろ使われた。テープはバックコーテングしたスコッチ206が使われていた。
ミクシングコンソールはニーブ、クワードエイト、APIなどが主流で、クラシックとか少ないchのときはスチューダーの小型コンソールが良く使われた。これは独特のハイ上がりサウンドで抜けの良さを出していた。当然、その頃はまだ、IC/OPアンプを使っているところは少なかった。国産コンソールはレコーディングスタジオでは皆無であった。国産(タムラ製作所、不二音響など)のは放送局、ホールと住み分けていた。理由を尋ねるとミュージシャン達が国産のだとバカにしたそうである。
これは西洋音楽をやっているので、舶来信仰もあったと思う。海外コンソールの中でAPIはモジュールアンプ(API2520)の音質が素晴らしく、APIでしか出せないサウンドがあった。トラックダウン用マスターレコーダーはこの頃になると、テンション・サーボのついたスチューダーA80が主流であった。これも国産デンオンは放送局とかホールにしか絶対使われなかった。理由は上記と同じであった。モニターアンプはマッキンMC2105、フェイズリニア、アムクロン、BGWあたりが主流で、これも国産アンプが仮にもっとも優れていても採用されることはなかった。採用されない理由は日本人が設計、製作したからであった。
モニターSPはALTEC620A(604E系統)が主流で、低音は出ないが中域が厚く、元気なサウンドには定評があった。しばらくしてJBL4320がいっせいを風靡した。サンスイの4ch開発時にはJBL4320をいち早く輸入して、4本をフロント、リアに配置して使っていた。たまらなく、歯切れが良く、中低域がはずみ、高域もそこそこ伸びていて、いわゆるALTEC臭さが皆無であった。わたしも参ってしまい、何とか中古品を入手して、エッジを張り替えて、今も使っている。愛用して30年くらいになる。モニターSPも国産のダイヤトーンDS−305は放送局しか使われなかったが、SPは海外ものに音質的に叶わないように思えた。
ところで、大ヒットしたJBL4343はスタジオで一度も見ることはなかった。JBLでも当初、スタジオモニター用として開発したと思われるが、アメリカのスタジオで採用されてと聞いたことがなく、当然日本では採用されることもなかった。しかし、4343の前身、4341を故瀬川冬樹さんが愛用していた。その後、4343が発売されるや、すぐに購入してこれを絶賛した。わたしも何回となく、瀬川さんのリスリングルームを訪問する機会があった。瀬川さんは部屋に縦置きしたり、横置きしたり、SPキャビネットの下に板を入れたり、外したり、レベルコントロールを徹底的に調整したりして、どの使いこなしに大変な努力を傾けていたので、その絶賛の文章には迫力があった。瀬川氏は結局、部屋に横置き、SPキャビネットはリスリングルームにベタ置きが一番と結論ずけた。アンプはマークレビンソンのプリアンプ、マークレビンソンの25W/Aクラスパワーアンプであった。
JBL4343は日本のオーディオマニアのあこがれの的となり、高価にもかかわらず、物凄い数量が売れてきた。一時は並行輸入した業者は大もうけしたとの話を聞いた。ユーザーには4.5畳の部屋に置いて使った方も多いと聞く。4343はその構成の大きさにもかかわらず、奥行きが狭く、スペースをとらないメリットがあった。
話を戻そう!
最後に、マルチトラックテープからミックス(トラック)ダウンして、マスターテープを完成させる。このときはまず、丁寧にレコーダーのヘッドを四塩化炭素(猛毒)で拭いて、標準1KHz信号でレベルあわせする。次は10KHzの信号でアジマス(位相)をオシロスコープを見ながら合わせる。こうして16トラックから2chへのトラックダウンして録音する。これで出来上がったテープを業界用語でカンパケと言う。マスターテープとも言う。マルチトラックレコーダーが普及する前は、マルチマイクで録音するが、2chデッキでの録音なので、ボーカルを含め、同時録音していた。(クラシックで有名はDECCAの録音チームは12本くらいのマイクをセットして録音していたのは、あのワグナー”リング”での録音を録画したLDを見ると良く分かる)音質の鮮度を比較すると、マルチトラックレコーダーからのダビング工程がないので、良かったし、位相関係も実在感があった。マルチ方式であると、楽器相互間にまったく位相関係がないから、音像定位は音の強弱だけで振り分けるので、雰囲気がイマイチにならざるを得なかった。
しかし、アメリカで採用されれば、日本はそれにすぐ飛びつくのであった。実際にPOPS録音でCD化されている”フィメール・ボーカル”(イシノラボで¥2000で販売中)を聴くと、マルチレコーダー方式の音源のほうが鮮度がわずかに落ちる。それでもボーカルのつぎはぎが出来るので、歌唱力の乏しい歌手でもものすごくうまく出来上がっている。TVやライブでレコードとあまりにも違うのにがっがりされた方も多いと思う。(但し岩崎宏美を除いて、彼女の音程の安定感、リズム感は凄い、)従って、マルチトラック録音方式もある意味では限界を迎えていた。
そうそう、4chクラシック録音にたちあった話をしよう。これは創価学会が故團伊玖磨氏作曲を委嘱した壮大はカンタータであった。團伊玖磨作品には皆さん知ってる唄に”象さん、象さん、お鼻が長いのね、、、”という童謡があるが、日本クラシック界の重鎮であった。中でも、オペラ”夕鶴”は1000回近く上演されている。そのカンタータはオーケストラ、大合唱団に、トランペットファンファーレはホール後方から鳴り渡る。そんなわけで、録音は4chステレオでおこなおうということになった。録音会場は千葉文化会館大ホール、これは現存する日本で唯一の木製部分のあるホール(消防法の改正で以後のホールは木材を使えなくなった。)である。響きがナチュラルで非常に良い。しかも、わたしの地元千葉市。早速、会社に志願して、録音のお手伝いをすることになった。録音ミクサーはオーディオ好き、音質にこだわる行方洋一氏であった。東芝EMIからプロ用QSエンコーダー、デコーダー、モニタースピーカーJBL4320、BA5000パワーアンプ借用の要請があった。会社から機材一式を車に積んで、録音会場ホールに駆けつけた。ステージ後ろの部屋をモニタールームとして、4隅に4320を4個、BA5000(300W×2)は2台を4320に接続する。マイクセットテイングは15本くらいしてあったような記憶があるが、メインL/R2本、後方ホール客席にリア用にL/R2本、残りを埋もれやすい楽器用に近接マイクとして配置していた。録音は16chのマルチトラックレコーダーに録音するが、モニターバランスをとるために4chにミックスダウンしたものと、それをQSエンコーダーに入れて2chステレオとしてもモニターできるようにしていた。
指揮は作曲者の團伊玖磨氏があたった。リハーサルを重ねて、本番スタート、16chデッキが15インチで回り始める。生音の切れ味はやはり凄い。何回かのテークを重ねて、作曲・指揮の團伊玖磨氏が確認をとりに聴きに来た。スコアに厳しい視線が走る。一言!”これでよろしいです!”、緊張感が少し緩み、スタッフに安堵感が見える。わたし個人としてはやはり、マルチレコーダーを通してもミクシングされたサウンドをさらに2chレコーダーで録音されれば、このクオリティはもう少し鮮度が悪くなるな!と思った。それこそ、再生側の細部にこだわったアプローチに比べると、ソフト側はかなり大胆と言おうか、無頓着でもあった。ミクサーにこのあたりを聞くと、最終的なレコードに出来上がったサウンドを想定している、との一言であった。しばらくして、テストプレス盤を頂いた。確かに、レコードのクオリティとしては素晴らしいが、あの生音には到底及ばない。クラシック録音ではよほどうまく録らないと、鮮度は落ちるばかりである。POPSとか、ジャズなどのジャンルではコンサートでも生音を聴くわけではない。このあたりをしっかり区別・判断しないとハイエンド・オーディオはおかしくなってしまう。
次回は前回予告したユニークなスピーカーの開発とDCアンプのはなしを記すことする。
2006年4月16日掲載
この記事は、2006年1月3日に”WestRiver(ウエストリバーアンプ)”のサイトに投稿した記事をベースに書き直したものです。
第6回 4chステレオ戦争 |
第1弾 日本オーディオ史 |
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