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イシノラボ/マスターズ店長の連載

第1弾 日本オーディオ史

第33回 ダイヤトーンとサンスイの相互OEMの動き

佐伯多門さんとの出会いと、1970年代のダイヤトーンとサンスイのスピーカ

先日のハイエンドショウ・スプリング2008東京の催事で、久しぶりにスピーカ技術の権威、佐伯多門さんにお会いできた。ダイヤトーン時代と風貌は変わらず、お元気な様子であった。佐伯さんとお話しているうちに、いろいろと思い出してきた。

そもそも、佐伯さんとのお付き合いは、オーディオフェア関係者として、毎年顔を合わせていたときから始まった。

当時、ダイヤトーンスピーカは福島県、郡山事業者で先進技術と最新設備を誇り、佐伯さん達のスピーカ開発チームには有能な人材が揃っていた。

一方、サンスイのスピーカ技術部は静岡・掛川の広大な敷地に移り、無響室、FFT解析設備などを備え、頑張っていた。1978年には、バイ・クリスタル(ポリプロピレン:70%、マイカ:30%)振動板を開発し、SP−V100を発売し、CPの高さも後押しして、これまでよりヒットしていた。けれども、次の一手となると、まだ開発に着手したばかりであった。わたしは、この時期、スピーカの開発・企画も担当していたし、入社後、希望して、スピーカ部門で仕事をしただけに、関係のエンジニアスタッフの方々とも本音で語れる関係にあった。スピーカビジネスの良いところはアンプと異なり、湿気に弱いウレタンエッジの張替え以外はサービス業務の発生がまずなかったことである。従って、スピーカは、売れれば利益が多かった。何とか、ビジネス的にヒットさせたかった。

一方、ダイヤトーンスピーカはDS261MKII(2WAYプラス、スーパーツイター付)の大ヒット以来、鮮明で、メリハリのはっきりしたサウンドは当時の音楽にもマッチして、ヤマハと並んで、2大ブランドと言える存在であった。

当時、発売した大型4WAYDS−5000は今でも、ある評論家さん宅のリファレンスシステムになっているほど、優れたものであった。

ダイヤトーンはアンプも製品化していたが、これは今一歩の感があった。日立のHMA−9500のように優れたMOSFETというデバイスなしで、アンプとして歴史のない総合電機メーカーがアンプを作っても、なかなか、採算に乗るまでにはいかなかったのではないかと思っていた。

ダイヤトーンとサンスイのスピーカ提携

そうこうしているうちに、たまたま、佐伯さんにあるところでばったりお会いした。何かのきっかけで、わたしは“佐伯さん!サンスイのスピーカ作ってくれないですか?”と言っていた。そして、“それでは、お互いの得意なところを生かしたいから、ダイヤトーンブランドのアンプはサンスイから供給したい!”とも言ってみた。佐伯さんは変わらぬ笑顔で、“それでは、持ち帰って、前向きに検討します!”とおっしゃってくれた。

わたしは、帰社してさっそく上司に報告して、感触を伺った。上司は“それは面白い!やってみたらどうか!”と言ってくれた。勢いで、佐伯さんに提案してみたものの、わたしの胸のうちには痛みが増してきた。一時的にも、自社のスピーカスタッフから、仕事を減らすことになるからだ。わたしのところには、否定的なこと言葉は飛んでこなかったが、おそらく、関係者の間では余計なことをしてくれた、という想いが強かったのではかなろうか?

はなしはとんとん拍子に進んで、サンスイ側は、小型ブックシェルフ型スピーカをOEM委託し、ダイヤトーン側はプリメインアンプを委託、というかたちで相互OEMが決定した。

そこで、上司を含めて、私たちは三菱郡山事業所を訪問した。さっそく、リスニングルームに通された。この時代の売れ筋のスピーカシステムがずらりセットしてあって、スイッチ切換で、聴けるようになっていた。サンスイスピーカでは、SP−V100(¥49,800)がセットしてあった。ダイヤトーンスピーカと比べると、明らかに、ダイヤトーンは鮮明で、くっきりしたサウンドであった。SP−V100のサウンドは悪く言えば、ぼけているといえるし、よくいえば、イギリススピーカーのような余韻を含んだしっとりしたサウンドといえた。当時はダイヤトーンスピーカがトップシェアを誇っていたから、ダイヤトーンのサウンド傾向を認めないわけにはいかなかった。

また、同時に、郡山工場の見学もさせていただいた。キャビネット組立工程では、当時まだ、珍しかった塗装ロボットが稼動していた。塗装作業が溶剤を扱っているから、作業者にとっては3K職場である。さすが、ダイヤトーンは業界のトップを進んでいた。

また、スピーカユニットでは、硬度がもっとも高いとされていたボロン振動板を採用したボイズコイル一体型振動板を製造していた。また、あのハニカム振動板もダイヤトーンでは多くのスピーカユニットに採用されていた。

すなわち、スピーカユニットでは、当時のJBL、ALTEC、TANNOYなどの海外ブランドがとても追いつけない高度の技術を有していたのであった。

それでも、少数の評論家の方達は海外ブランド崇拝のせいか、ダイヤトーンスピーカには、あまりもアキュレートとか、日本的な生真面目さとか、特性第一主義と良い評価をしていなかった。

わたしも、海外崇拝ではないが、あまりにも鮮明なサウンド造りにはついていけない受け止め方もあった。但し、古いP610のようなペーパーコーン、フルレンジのユニットには好感を持ち、通算8個も購入していた。

後年、イギリスのスピーカ会社に出張した折り、スピーカエンジニアは、スピーカサウンドの出来栄えとか、方向は“オーディオカルチャー”と言えるものであり、テクノロジーでは割り切れないと、言っていたのを思い出した。振り返ってみると、日本の優秀なユニットを使って、サウンド造りは、その音楽に浸って育った現地のエンジニアに任せれば、最高のスピーカシステムが出来たかも知れなかった。

それを、実践しているのが最近のパイオニアである。確か、アメリカのLA地区で、現地人に音造りを任せているといわれている。

話が少しそれてしまったが、それほど、当時のダイヤトーンはハイテクであり、ブランドに勢いがあった。

さて、サンスイ側としてはどんなものをOEM委託すべきかになった。最初から、本格的なシステムにはお互いの手の内がわからないので、リスクが大きいと思い、小型システムを頼むことにした。確か、16cmウーファと5cmのツイータの2WAY構成で、内容積10〜15リットル程度のものと仕様を決めた。

細部の仕様のやり取りをおこなって、ダイヤトーン側はシステム造りに入った。しばらくして、ヒアリング検討を郡山でおこない、承認して貰い、生産の手配をしたいと、ダイヤトーンサイドからの連絡があった。

そこで、郡山事業所に出張して、サウンド造りに立ち会うことになった。スピーカユニットの振動板はいずれもペーパーであった。ハニカム振動板はコストの関係でどうしても採用できないという。そのような説明を受けて、まずは、聴かせて貰った。ハニカム振動板のシステムよりもシャープさで及ばないが、鮮明なサウンドで、歯切れも良かった。しかし、もう少し、全体の重心が下がるともっと良くなると伝えた。

それから、何トライかの処理を施して、私に聴かせてくれた。おそらく、吸音材の種類、分量、装着する場所をいろいろやってみたのだと思う。吸音材はその名前からして、音を吸音すると思い勝ちであるが、実際の吸音効果は中域からで、低域〜中低域での吸音率はほとんどない(0.1以下)のである。従って、キャビネット内の定在波を食い止めることにはほとんど効果がない。むしろ、吸音材が付加振動質量となって、効率を低下させて、結果的に周波数レスポンスや過渡特性を変化させて、音質を変化させるのである。小型スピーカシステムでは、内容積が足りないから、低域が低下して、低音不足のサウンドになる。それを補うのは吸音材で中域の効率を下げて、かつ、そのシステムの低域共振を下げることになるのであった。これは、小型スピーカや、容積の割に低音を出そうとするスピーカにはずっと付きまとう問題である。

音質検討が行き詰まり、しばらく休憩になった。わたしはトイレに行った。そのとき、佐伯さんもトイレにきていた。ふたりで、連れションしながら、少し話し合った。佐伯さんは、“こうなったときは、いつもP−610の原点に立ち返るのです。”とおっしゃった。“それはどういうことですか?”とわたしは尋ねた。“P610に採用したコーン紙、コーン紙形状がダイヤトーンの原点なのです。”といった。連れションで、長話もできないからそれで終了したが、検討場所に戻ると、ダイヤトーンのスタッフはウーファコーン紙を張り替えたユニットに交換して、音を出し始めていた。

これまでよりも、スムーズで自然さを感じさせるサウンドになっていた。それで、このサウンドをベースに、吸音材を調整(2種類を使う、使用料を調整、取り付ける場所を調整する。)して、重心を下げることが、段々とうまくいってきた。

結果として、好ましいサウンドに仕上がってきた。これで、製品化設計は完了させることにして、ダイヤトーンOEMによるサンスイスピーカは誕生した。

ダイヤトーンスピーカ事業は、原価的には当時のパイオニアのように、材料費をふんだんかけることは出来ない体質であることも分かった。OEMを続行するには、ビジネス的に無理がややあると感じて、これ以上のビジネスは控えざるを得ない気持ちになっていた。 ダイヤトーンサイドはサンスイのAU―D707FをそのままDA−U1000というモデル名にしたプリメインアンプ(但し、シルバーパネル)を200台オーダーしてくれた。発売は1982年の秋であった。

このビジネスはこの1回切りで終わった。OEMのむずかしさも味わった貴重な体験であったし、他社の状況、やり方を知ったのも、後々の自分のキャリアになった。

それにしても、ダイヤトーンスピーカが縮小してしまったのは、非常に残念である。少なくとも、ダイヤトーン・スピーカユニットの実力は今もって、世界でトップ水準と思う。ユニット供給で、ビジネス出来る道があればと思っている。


2008年 7月13日掲載


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