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イシノラボ/マスターズ店長の連載

第1弾 日本オーディオ史

第60回 ダイエー向けブランドのCDラジカセ、フィリップスのシステムコンポのOEM

ダイエー、まだ、健在であった!

オーディオメーカーの営業担当だった方ならご存じと思うが、1970年代、オーディオコンポを一番売った販売店はダイエーだった。

ダイエーはスーパーストアの先駆けとして、中内功オーナーが辣腕をふるっていて、全国トップの売上を誇っていた。1988年には“南海ホークス”を買い取って、“福岡ダイエーホークス”にした。

1990年代になって、さすがのダイエーも絶頂期を過ぎた感があったが、まだまだ、ダイエーの威力は凄いものがあった。 当時、浜松町の“軍艦ビル”と言われたダイエー本社ビルは威容を誇っていた。もう、ダイエー売り場のオーディオ商品は、シスコン、ポータブル系が主流になった。そのころ我々の会社は、ダイエーへの販売ルートが営業部門の努力で開設された。

プライベートブランドの流れ

大手販売店が力を得てくると、各大手販売店は従来ブランドの商品政策には満足せず(ダイエーvs松下戦争は有名)、自分たちのブランドを売ろうという動きが出てきた。ちょうど、台湾、韓国が競争力を付けてきて、扇風機等の軽家電が海外生産に移行して、プライベートブランドの扇風機も出始めていた。

そして、1982年に登場したCDも10年以上過ぎた1992年頃には、中国でもCDラジカセが組み立てられるようになってきた。
そこで、中国貿易に取り組んでいた会社と組んで、ダイエーにプライベートブランドとして、“CDラジカセ”を売り込んだ。
ダイエーとの交渉は難航したが、CDラジカセをダイエープライベートブランドとして、3万台の買い付け契約がまとまった。

我々の会社としては買付資金がそれほどあるわけでなく、銀行融資に頼った。まだ、バブルの残り火が残っていて、勧業銀行(現、みずほ銀行)は融資に応じてくれた。
私はCDラジカセには詳しくないが、ポータブルCDには少し検討していた時期があったので、このプロジェクトマネージを担当することになった。

当時の中国

1990年当時、円高になり、ゼネラルオーディオ製品は海外生産にならざるを得ないという状況で、労働力の安さで、台湾・韓国から中国にシフトしていく形勢にあった。日本からアッセンブリービジネスが無くなってくるだろうという危惧は感じていた。
それでもビジネスチャンスを見つけるため、その2年前に、営業責任者と私は香港経由で中国にわたった。
(注)阿片戦争の戦果として、イギリスは1898年、99年間の香港地区の租借権を得た。空港は当時、啓徳空港で、着陸進入中の旅客機が機体を大きく傾けつつ九龍仔公園上空近辺で機体を右旋回させ、ビル群すれすれの高さを飛行して滑走路13に着陸する「香港アプローチ」が知られていた。機体操作には高度な技術が要求され、近隣住民にとってもその騒音は無視できない問題だった。

香港から電車で深セン(シンセン)まで行って、入国検査を受けて中国本土に入るか、香港からフェリーで太平(タイピン)に行くルートもあった。

当時の中国はいわゆる開発途上国で、道路は未舗装、がたがた道路で、中古タクシーが乱暴に走り回っていた。完全なクルマ優先社会で、はねられた人が道路脇にすてられていると言う話も聞いたし、タクシーは絶対に1人で乗らない、できるだけ会社からの迎えの車を使う等を注意された。

東莞地区(シンセンから南に下った地域)には工業誘致地区が造成されて、2~3階建ての工場がどんどんできていた。

夏は湿気が多く、暑く、冬は寒く、黄砂が工場内に入り込むという気候であった。それでも中国に組立作業が移転することは、人件費の物凄い(台湾・韓国もとても太刀打ちできない)安さがあった。
舗装されていない道路脇には、ジーパンを履いた若い女性がたくさん荷物を抱えて歩いていた。聞くと、中国奥地から出てきた女性が、これら工業団地内の会社に職を求めて集まってきているとのことであった。

工業団地の造成の勢いは凄く、どんどん工場(と言っても、組立作業が出来る程度の建屋)が建設されていた。自転車はすでに組み立てられていたし、ブラウン管TVの生産が始められる頃であった。フォスター電機はすでに中国、広州、パンユウでスピーカー、ヘッドフォンの本格生産を始めていた。
タムラ製作所も小型トランスを東莞地区で生産していた。

話は飛ぶが、サンスイ在籍当時、プリント基板やシャーシ等の金型費は、アンプ1機種当たり¥1,000万~1,500万が相場であった。ところが中国に行って驚いた。彼等は1/5以下のコストで金型を作ってしまう。金型製作の現場を見たが、金型の精密修正には若い労働者がやすりで磨いて、数ミクロンの修正をやっていたのだ。
一方、日本の金型屋はコスト意識が薄く、企業努力を怠っていたと思う。たちまち金型屋は日本から無くなっていった。また、3K仕事の塗装作業も中国人がやれば、塗装前の下地加工、塗装と丁寧にできるので、これも日本から移転していった。具体的にはトライオードの真空管アンプのトランスケースをご覧になれば、ピカピカに厚く塗装されていることで納得できる。

このような様子をまじかに見て、日本モノづくりは衰退し、その近未来は明るくないと悲観的にならざるを得なかった。

 
CDラジカセが出来上がってくる、でも途中で、そして販売は?

CDラジカセの中身は、カセットメカが日系の中国生産品、CDメカも日系の中国生産、スピーカーユニットも中国生産品、電気回路はIC主体の回路で、当時はまだ、片面基板、部品はインサートマシンではなく、労働力が安いので、手差しであった。半田付けは自動半田漕、自動カッター(部品の足をカットする)であった。外観のデザインは日本人の手によるもので、割と派手で恰好が良かった。
外装ケースは樹脂一体射出加工になるので、その精度(ヒケはないか?きっちり寸法が合い、問題なく組み立てられるか?カラーを決める顔料配合はどうか?)をチェックする必要があった。

12月になって、“チェックに来て欲しい!香港まで出向くから!”との連絡が入り、私が急遽、香港出張することになった。12月で多忙であり、夜中に書類が必要なことを思い出し、AM2時頃、会社まで車で取りに行って、AM4時に自宅に戻り、2時間ほど寝て、電車で成田空港に出向いた。当時、私は健康、体力には自信を持っていて、このようなハードワークは何とも思わなかった。

ところが、成田空港に着いて体調がおかしくなった。ドキドキするし、気持ちが悪い、搭乗寸前になってCAさんに申告して、空港の医師に診察して貰った。医師は若い経験不足のアルバイト医師のような風情で、血圧測定して、“160-95あるけれど、心配ないでしょう!”と言われ、仕方なく搭乗した途端、離陸した。飛行機はJAL ボーイング747であった。
やはり体調は思わしくなく、CAさんに言ったところ、“それでは、2階のファーストクラスでゆったりして、あと4時間だから!”と言われ、移った。
ファーストクラスの座席はゆったりして、CAさんの待遇も素晴らしかった。
それでも体調は悪化するばかり、見かねた隣の方が“肩、首をマッサージしますから!”と言われて、お願いした。そのご夫妻は当時有名な“指圧の神様”と言われた浪越徳次郎さんの長男、徹氏(1994年急逝)ご夫妻であったのだ。ご夫妻交代でマッサージしていただいたが、良くならない!!
やっとの思いで香港空港にたどり着き、そこで、知り合いの香港商社の日本人の方にTELして来てもらい、香港のクリニックに連れて行ってもらった。そこですぐ心電図をとったが、その波形はめちゃくちゃであった。オーストラリア人の医師が“パルス(脈拍)が乱れている!”と言っただけで、何も処方してくれない。

その足で何とかCDラジカセの機構設計者(中国人)達と、ふらふらになりながら打ち合わせをして、外装ケースの承認作業をして仕事が終わった。それからが大変で、ホテルに帰って横になったが、ドキドキで気持ち悪く、食事も取れない、睡眠もできない、一睡もできず、翌朝這って歩くようにして空港にたどり着き、帰りの飛行機に乗って成田に着いた。
帰国して医者に掛かったが、大分症状は改善されていたせいか、以後、血圧降下剤、安定剤を処方された。今から思うと、“初期の心房細動ではなかったか?”と思っている。
“自分はもう若くない!無理がきかない!”と悟った。
みなさんも、体調の限界、人体の部品劣化を自覚して、健康寿命を延ばしてほしいものです。

話が横道に外れてすみません!

そうこうしているうちにCDラジカセはでき上がってくる。代金決済はオーソドックスなLC貿易(レター・オブ・クレジット)方式で、輸出側がコンテナに入れて船に乗せてしまえば、取引銀行から代金が支払われる方式であった。輸入側は輸出側がFOB(船渡し)なので、保険を付けて(CIFと言う)輸入を待つ、銀行側から船荷証券を貰い、輸入品を受け取るものであった。代金は取引銀行に振り込むことになる。銀行は手数料を(10%?)を受け取る。

輸入されたラジカセは、いったん倉庫に入り、ダイエーからの注文に応じ各販売店向けに出荷する。倉庫費用というのはバカにならず、1平方あたりけっこうな費用を取られるので、そのあたりも原価計算に入れておかないといけない。

最初はスムーズにこなせていたが、半分くらいから、ダイエーからの注文が止まってしまった。会社の資金繰りは大変になるし、取引銀行は心配して、“どうなっている?”と言ってくる。私は、資金については直接の関係者ではなかったが、大手の発注側は“買付契約を守ってくれない!”ものだと、下請けの悲しさを感じた。憤ったところで、裁判沙汰にしてもらちがあかない。結末は知らされていないが、大手との取引はやるものでないと思った。

やはり、ビジネスは零細でも自分たちが主体にならないと。難しいところだ。

当時の大手オーディオメーカーX社のシスコンOEM

ダイエーのOEMで懲りたはずだが、プリアンプの設計をしたA社から、シスコンをどこかから仕入れたいとの話があった。どうしてそのような申し入れをしたのかを尋ねると、ダイエーでCDラジカセを見て、どこでOEMしたのかをトレースしたら、我々の会社に行きついたと言う。

その後、我々の会社は、マランツとフィリップスとが提携していた頃、マランツにつてができた。マランツ恵比寿東京事務所でそのような話をしてみたら、フィリップス社が乗ってきた。勿論、話す相手はオランダ人であった。話を伺うと、当時フィリップスはマレーシアのペナン島に工場を構え、シスコン等のオーディオ製品を大量生産しているとの話であった。仕様、価格、対応力等について交渉を重ねると、けっこうA社が望むところに近づいてきた。

そのシスコンは、12cmウーファーにドームツイーターのスピーカーをベースに、CD、カセットにレシーバーとでシスコンが構成されていた。カラーは、数がまとまれば好みに対応すると言う。

また、そのころになると、システムの操作はマイコン搭載されており、リモコンで設定、操作するもので、けっこう複雑であった。

話はとんとん拍子にまとまり、私とA社の検査担当のYさんとで、ペナン島のフィリップス工場で生産に立ち会うことになった。

成田から8時間でペナン島に着いた。さすがにフィリップス工場だけに洒落ていて、清潔で、統制が取れていた。工員の女性たちはイスラム教の国だけに、スカーフをしており、食事も我々と異なったところで摂っていた。

当時の中国の工場に比べ、黄砂もなく、段違いであった。

生産立ち会いはスムーズに進行し、船積もスムーズに行った。私たちは役目を終え、帰国した。私の残った仕事は、フィリップスの英文取扱い説明書をA社向けに日本語に変更することであった。
現物相手に英文取扱説明書を和訳するには手間を食った。評論家に、オーディオメーカーでカタログ、取扱説明書を専門家としてならした方がおられるが、大変な特殊才能を思い知った。

このシスコンは数量が2000セット程度だったので、注文キャンセルというようなことはなく、利益は少なかったが、損失は出なかった。

OEM業務を通して、何を感じたか?

資本の論理で、経営者は、採算が取れなければそのようなところでは作らせないので、安価な原価が達成できるところにどうしても流れる。
アメリカはもう30年前にそうなっていた。日本も同じような道を辿り、モノづくりは衰退する。アメリカは多様な人々によって成り立っているから、モノづくり以外に、金融(特にユダヤ人)関係、ソフトビジネス(マイクロソフトのような)、知財、その他で、国全体で利益は上げられるお国柄である。

日本人はどうみても、細部までこだわり、精度を上げること、製法の改善等に優れた適性がある。このような能力を発揮する舞台は、日本国内には本当に少なくなってきた。私は、円安になって、このような能力を生かした製品の輸出で貿易収支は改善されると思ったが、そうではなく、もう輸出するモノづくりができないだけでなく、今まで得意としてきた通信機(スマホ等)も大量輸入国になってしまった!いよいよ貿易経常収支の利益もどんどん減少して、今や韓国の1/2以下になってしまった。

私には妙案は浮かばないが、若い方にはせめて、アニメ等のソフトビジネス、著作権等で、外貨を稼いで貰いたい。
あとは隙間(ニッチ)とカスタム、高機能、高精密度を合言葉に、海外の富裕層相手に買って貰う、スイスのような国造りが良いのかと思う。

この稿のおしまいに。皆さん、ご存じでしょうか?中国人のオーディオファンは、中国部品を使っていない1970年~1980年代のユーズドコンポを争って買い求めています。

毎回、つたない文章をお読みいただいてありがとうございます。まだ、まだ、話は続きます。


CDラジカセ
※実物と同じものでありませんが、このようなCDラジカセを作らせて、ダイエーのプライベートブランドで納入しました。


2014年2月15日掲載


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