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イシノラボ/マスターズ店長の連載

第1弾 日本オーディオ史

第83回 名オーディオアンプエンジニア 横手正久さんを想い出す!

横手さんの突然の死

2018年3月、横手さんはいつもと変りなく、アクアオーディオでの仕事を終えて三鷹の自宅に帰宅し、夕飯も普段通り食べて就寝したといいます。
翌朝、いつものように起きてきません。その日の仕事は休みなので、奥様は特に起さなかったといいます。
あまり遅いので起こしに行ったところ、横手さんの意識がないことにびっくり、すぐ救急車を呼んで、病院に直行。
けれども残念ながら、意識は戻らず、そのまま入院となりました。1か月後、3人でお見舞いに行きました。横手さんは寝ているばかりでした。そして、8月、帰らぬ人になりました。享年80歳でした。
横手さんは心筋が良くないので、長年、血液さらさら剤を服用し、毎月、慈恵医科大学病院での経過観察を欠かしませんでした。それなのに、それなのにです。

横手さんとの出会い

さて、横手さんは私が入社したとき、ばりばりのオーディオ設計者でした。
横手さんはいったん、明電舎に入社したものの、オーディオアンプへの想いが断ち切れず、山水に中途採用で加わり、すぐに仕事を任される実力を持っていたのです。
私が入社時、横手さんはAU-777Dのチーフ設計者でした。当時、他社にないブラックフェイスシリーズが好評。
このシリーズは銀河鉄道999に使われたネーミング、AU-999はそのトップアンプでした。
AU-777DはAU-777の後継機として製品化されたのです。
回路的には、当時はまだコンプリメンタリートランジスタがなかったので、ファイナルSEPPをどうドライブするかが課題でした。
真空管アンプから発想したC-E分割回路を採用していました。
私が新入社員教育の一環として、AU-777Dの生産を手伝ったことを思い出します。
それほど、売れたのです。おそらく、生産台数は軽く1万台はオーバーしたと言われていました。
私は希望して、スピーカー設計に従事していましたが、設計部が大部屋だったので、自然と横手さんと仲良くさせてもらう仲になりました。
横手さんの自宅を訪問すると、JBL SA600、ALTECバレンシアが置いてありました。切れ味の良いサウンドでした。
横手さんはオーディオに興味あるが、音楽にはあまり関心がないようでした。横手さんと音楽に関係する話をしたことがなかったように思います。

横手さんは優秀であったから、入社9年目には管理職待遇の専門課長になりました。
そうなると、当時の組合の、そのような身分には機種担当はさせないというおかしなことを、会社側が飲んでしまい、横手さんは新機種設計から身を引き、サイドからアドバイスをする役割になっていました。
横手さんはめげず、山水アンプの細部性能や他社アンプ、海外アンプの細部にわたる測定をおこない、我々に重要な情報を与えてくれました。
その後、私も専門課長になりましたが、そのときは、このようなおかしな決まりは無くなり、自由にふるまえることになりました。

山水最高ランクのセパレートアンプを開発商品化

そして、いよいよ、山水最高ランクのセパレートアンプを開発商品化することになりました。
私が開発チームのリーダーとなり、電気は横手さん、デザイナーは大友さん(現、マスターズアンプ担当)、ケース・内部設計はオーディオ大好きなNさんの4名でした。

先に、パワーアンプです。工業デザイン担当の大友さんとはパワーディスプレーをどうするかでした。アキュフェーズのようなピークメーターでは新鮮味がありません。
横手さんと一緒に外部情報を探し、プラズマ方式によるバー表示ができるということで、採用することにしました。
このような条件が揃って、大友さんはサイドウッドを採用したいというので、お任せしました。
デザインモックアンプを作り上げ、経営陣にも見せると評判もよく、OKとなりました。とても気品があり、かつ、価値観があります。
金型予算の関係で、2機種商品化しようということになりました。
300Wと200Wの2機種となりました。モデル名は、私はBA-2301を提案(2:ステレオ、3:300W)、Aは取り、B-2301、B-2201、となりました。
パワートランスは大型トロイダル、ヒートシンクは大型品にパラ接続/バランス増幅構成となりました。

横手さんとNさんは、200Wの大型LAPTトランジスタ、サブヒートシンクを巧みに設計して、割とコンパクトに収まりました。
XバランスはRCA入力でも正常に動作しますが、横手さんの提案で、RCA入力にバッファーアンプを搭載して、入力インピーダンスを少し高めました。
入力調整は抵抗により6段階にしました。そのような進行で、良好なチームワークでできあがりました。

途中、故、金子英男さん推薦の電解コンもフィルムコンも搭載して、量産試作品が完成しました。
上司と私は、故、菅野沖彦さん宅で、マッキントッシュ スピーカーで素敵なサウンドを奏でました。

コントロールアンプ開発

そうして、B-2301、2201は発売されました。販売店筋の評判も上々で、いつ、コントロールアンプが出てくるのか?との要望が寄せられました。
すぐ、コントロールアンプ開発がOKとなり、同じチームで、商品化がスタートしました。
C-2301とネーミングされ、デザイナーの大友さんは、サイドウッドを生かした素敵なデザインをしてくれました。
内部レイアウトをどうするか?でしたが、上下対称に増幅基板を配置することにしました。 何とか、内部も美しくしたいといろいろ考え、Nさんの提案で、化粧アルミサッシを使ってプリント基板を静電シールドする方式となり、このユニットに印刷して、内部も美しく仕上がりました。

MC対応はローインピーダンス、ハイインピーダンス専用のMCトランスを搭載することにしました。
タムラ製作所の山口豊さん(現、マスターズ採用のトランス製作者)に、いろいろなコアによる試作品を作っていただき、ヒアリングテストの繰り返しによって、決めました。
フォノイコライザーはダイアモンド差動回路採用、特に、RIAAイコライザー用大容量スチロールコンデンサ(専用メタルケース入り)を搭載でき、RIAA回路の低インピーダンスが実現でき、応答性の向上が実現できました。
問題はバランス変換アンプをどうすべきかでした。さんざん、横手さんとも迷ったあげく、非反転アンプの出力に反転アンプを介して、構成できました。
この方式は、次のC-2302Ⅱではトランス出力でバランス出力になりました。C-2301もありがたいことに評判がよく、これで念願の高級セパレートアンプが揃いました。
私は何かやり遂げたことで、空虚な想いが沸いてきたような心境でした。

新会社CTSの設立

その後の4年後、サンスイを退くことになり、仲間とともに新会社CTSを設立することになりました。
横手さんは残念そうでしたが、何か新会社で必要なことがあれば手伝うと言ってくれました。

設立して、大型注文(1億円相当)に追われ、アンプの発信安定度について、横手さんは休日来てくれて、貴重なアドバイスをいただきました。
この作業を見ていた本田潤さん(当時は学生アルバイト、現、USA在住、Dクラスアンプの世界的権威)が後日、物凄い衝撃を受け、感動したと述懐していました。

マスターズ/イシノラボをスタート

それから15年の月日が流れました。私は起こした会社から退き、ロジャースインターナショナルも退き、個人事業主となり、マスターズとなり、イシノラボでは真空管販売を始めていました。

マスターズでは、ケンウッド、タムラ製作所、パイオニアのDクラスアンプの開発もひと段落していたところに、サンスイ電気の技術部長からTELがありました。
サンスイの業績がじり貧で、私に手伝ってということでした。聞くと、横さんはすでにサンスイを退社して、契約社員として麹町のマンションにサンスイ東京事務所を開設し、O・Iさんと2名で、開発業務をしているこということでした。

しばらくして、新横浜にあったサンスイ本社に出かけました。当時の社長E・Iさんと面会しました。
私がいたとき、1400名いた従業員数は400名くらいに激減していました。本社ビル、静岡事業の土地を売却して、福島工場のみが自社不動産でした。

私はサンスイと顧問契約し、横手さんのいる東京事務所に3日/週、通うことになりました。久しぶりにお会いすると元気でした。
早速の呼ばれた課題は、新たに輸入契約したスペンドールをどう扱うかということでした。BBC技術研究所出身が起こしたスピーカー会社でした。
調べてみると、見るべき技術もなく、そのサウンドも聴くべき良さは認められませんでした。むしろ、ハーベス、KEFに遅れを取っていました。

経営陣も迷走しているようでした。近年のヨーロッパを中心とするスピーカー技術はデジタル技術を中心として、進歩は著しかったのです。
幸い、私は、評判の高かったBC-Ⅱをもっていたので、それを東京事務所に持ち込み、横手さんはじめOさんにも、営業の皆さんにも聴いてもらいました。
皆さん、納得してくれました。その密度の濃いサウンドがその時でも、良かったのです。
スペンドールに問い合わせてみると、何とか75セット分は用意できるという返事でした。すぐ、方針を伝え、行動に移しました。
やがて、復刻BC-Ⅱができてきました。内部のユニットはオリジナルと少し異なっていました。けれども、販売店筋はBC-Ⅱを覚えていて、すぐ売ってくれました。
その後の矢を打つ策は、もうスペンドールにはありませんでした。

次は、本筋のアンプです。これは、これまでの連載に記したとおりで、AU-111Vintageで限定的に大成功でした。しかし、本来のXバランスアンプをインプルーブする能力はありませんでした。
私は社長に回路のインプルーブを提案しましたが、もう、サンスイには余力は残っていなかったようです。2.5年で顧問契約は終了、東京事務所は閉鎖になりました。

サンスイの終焉

ほどなく、サンスイは上場廃止となり、同じような苦境になったナカミチの中道武さんがサンスイの社長を兼ねるようになって、東京の事務所には中道社長と事務の2名になってしまいました。
そして、完全にサンスイは国内から姿を消しました。海外(東南アジア)で、サンスイブランドで冷蔵庫、洗濯機、TVなどの家電ブランドが売られていました。
現在、国内ブランド権を買い取ったドーシ社が、サンスイブランドで小型コンポを商品化しています。

アクア・オーディオラボ

さて、話を横手さんに戻すと、どうすべきかを考えていたようです。私は彼等の相談に乗っていました。

2年後、O・Iさんを社長として、“アクア・オーディオラボ”を立ち上げました。サービス部にいたOさんを加え、入間市に工房を構えました。サンスイアンプを中心とした修理会社です。

丁寧で確実な修理は評判を呼び、メディア(TV、新聞)にも取り上げられました。
とりわけ、横手さんの修理は、不具合箇所が片chだと、反対chも同じような処置を施していました。ステレオアンプだから、L/Rは同じであるべきというまっとうな考え方でした。
そして、修理にも工夫を加え、もとより良い性能になったアンプもあります。
海外アンプにも、すぐ回路を基板から読み取って回路図にしてしまう天才的能力を持っていました。
そうして元気に仕事に励んでいたのです。オーディオ界の貴重な人材を失いました。

合掌

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