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イシノラボ/マスターズ店長の連載

第1弾 日本オーディオ史

第84回 日本のオーディオ産業はピュア・オーディオでは、採算が取れなかった!

経緯

戦後、LPが出現し、やがて、ステレオレコードとなり、娯楽に飢えていた方々に大歓迎されました。
ちょうど、TVがまだ登場する以前だったので、さらに人気は高まりました。
これらのニーズに対して、パーツメーカーが応えました。
力をつけたこれらの会社はやがて、これまで、電蓄と言われた、ビクター、コロムビアの一体型ステレオ装置に対して、セパレートステレオで、それより上質なサウンドが売り物でした。
セパレートステレオセットを床の間に安置させて、歌謡曲なりジャズなりを聴く方がかなり多くなりました。
ところが、発刊したばかりの“ステレオ”、“ステレオサウンド”等は、そのうえを行くコンポーネント・ステレオを提唱して、その組み合わせが記事の主要部分を占めるに至りました。
そこで、コンポーネントを発売するオーディオ専業メーカーが増えてきました。発売すれば物凄く売れましたが、決して、採算が良いとは言えませんでした。
どうして、そのようなことが続いたのでしょうか?
そうです!アメリカはフランスがベトナムから撤退したのを引き継ぐ形で、ベトナムへの爆撃(北爆)を沖縄基地から、大規模展開を始めたのです。
やがて、大規模地上軍を南ベトナムに派遣して、傀儡政権をさせる戦争を始めました。
派遣されたアメリカ軍兵士は、生死の危険の代償に戦時手当をもらって、買い物に走りました。いわゆるPX需要です。
PXはカタログ販売、現地(沖縄、南ベトナム、横須賀、ほか、在日基地)にありました(現在も在日基地にはある)。
ドル紙幣を握りしめた兵士は、形が残るものとして、当時、AKAI、TEACのオープンデッキ(まだカセットはありませんでした)がが売れに売れました(ナカミチはTEACに下請けの時期もありました)。
やがて、コンポステレオを揃えて買って、ひとときの休みをステレオで癒すことで、良く売れました。
不幸にも戦死した方には遺体とともに、ステレオセットがUSAの実家宛に送られる劇も少なくありませんでした。
特に、昭和42年~44年にかけての、オーディオ専業メーカーの利益はすさまじいものがありました。
例えば、私の在籍していたサンスイでは、儲かりすぎて、静岡県掛川市の4万坪の全音楽器土地を取得して研修施設を作ったり、設計部門を東京から移動することをおこないました。
長野・塩尻市にスピーカー組み立て工場、東北(郡山地区)にアンプ組み立て工場を作り、あっという間に、2000人近くの大企業に成長しました。

大手電機メーカーの参入と撤退

このような状況を横目で見ていた大手電機メーカーは儲かるとみて、オーディオ産業、それも国内マーケットに参入を始めました。
東芝→AUREX、日立→Lo-D、NEC→オーセンテック、三洋→OTTO、シャープ→OPTONIKA、等のブランドで大々的に始めました。
販売店やオーディオ誌、そして、ユーザーが面白さを提供しましたが、その採算は日本では過当競争で、決して好ましいものではありませんでした。
(けれども、オーディオコンポを扱う販売店は2000店を超えていました。特に、当時のダイエーや、大学の生協での売り上げも多かったです。)
しかし、その期間も長くは続きませんでした。採算が悪化して、次々と撤退していきました。
それでも、ヤマハ、テクニクス、は頑張っていましたが、先細りになっていきました。
1999年にはダイヤトーンは郡山事業所を閉鎖して、ほとんど消滅した形になってしまいました。

エスカレートしたテープ方式

そして、ピュア・オーディオはさらにエスカレートして、生音を追求する傾向が進みだし、オープンデッキが売れ始めました。
老舗としてのTEAC、AKAI、そして、海外ではREVOXもそのコンパクトさで浸透し始めました(私も買った1人でした)。
いわゆる、レコード会社のマスターテープとなる2トラ・サンパチ機が続々と登場し始めました。
それに、SONY、テクニクス、デノン、さらにJVC、パイオニアが追随しました。
特にTEACは自社開催の録音会を何回も開き、ユーザーのニーズに応えました。
けれども、そのようなイベントは東京地区に限られ、地方の方は、FM番組をオープンデッキで録音する方も少なくありませんでした。
それによって、テープメーカーも潤いました。スコッチ、マクセル、富士フィルム、SONY、TDK等でした。
それも長続きしなく、今度は、フィリップスが開発したカセットが世界的に大ヒットして、オープンデッキに取り変わりました。
今まで、下請けに甘んじていたナカミチは、3ヘッドカセットの商品化によって一気に開花し、小平に大きな自社ビルを建てるまでになりました。
もちろん、大手もカセット中心になりました。
この時期、S/N比の改善のための技術が発明され、ユダヤ人のドルビーさんが考案したドルビーBシステムはライセンス方式(パソコンのマイクロソフトのようなもの)を世界的に構築して、大金持ちになりました。
さすが、ユダヤ人は凄い!
AUREXは自社開発方式を提唱しましたが、普及に至りませんでした。
異色としては、デービット・ブラックマンがdbxを提唱したが、あまりにも改善値を取りすぎたためサウンドに息継ぎ現象が起こり、広まりませんでしたが、dbxブランドはチャンネルデバイダー等でブランドは継続しています。

CD登場とは何だったのか?

1982年、CD登場以来、アナログ音源をCD発売して、アナログレコードは終焉し、CDの前途は繁栄が約束されていたように誰しも思いました。
アナログレコードの買い取りや、オークションでは捨て値同然でした。
多くのオーディオファイルがCDを主体とする決断をしました。私も、CDをどんどん買いました。あっという間に300枚くらいになりました。
そして、その感想は、“長時間再生ができて手間いらず、便利だ!”
そして、ソフト部門に新しいブランド会社が出現しました。“エイベックス トラックス”でした。
この会社は、アメリカサンスイの実質社長であったY・Tさんが、日本でCD貸出業務からスタートした小規模会社(3人程度)でした。
アルバイトに来ていたM・K(後のエイベックス社長)さんの進言で、第一次イラク戦争中、情報が日本に入ってこなかった時期、勇敢にもヨーロッパに行き、ダンス音楽音源を買い込んできたのでした。
この音楽が日本で紹介されるや、東京を中心に大ブームとなり、CDは売れ、また、1991年開業した“ジュリアナ東京”の舞台で踊り狂う若い女性が大変注目されました(彼女たちももはや還暦世代)。
エイベックスはエンターテーメントにも進出し、浜崎あゆみ、安室奈美恵など、次々とヒットを飛ばし、急成長しました。
当初、CDは爆発的な売れ行きでしたが、2006年頃から、売れ行きは頭打ちとなりました。
新社長となったM・Kさんは音源配信を推進しましたが、それほどではなかったようです。
オーディオ誌においても、“ネット・オーディオ”なる時代に先駆けた雑誌を発刊しましたが、近年、休刊しています。配信事業とは難しいものだと思います。
話がそれてしましました。戻しますと、CDサウンドは感心するほどのサウンドではありませんでした。
そのような声は少なからずあり、その原因はCDプレーヤーの性能によるとされました。
従って、CDプレーヤーの改良の動きは、評論家芝崎さんがMJ誌に連載するほど、様々な工夫、方式、回路、そして、LSIが生まれました。
相対比較ヒアリングでは素晴らしいとされるCDプレーヤーでも、絶対評価となると、何か限界を感じるものでした。
そのような状況で、開発会社のSONYは放置するわけにもいかず、サンプリング周波数を飛躍的アップさせた“SUPER CD”が誕生しました。
政策的なこともあるのでしょう。その価格は平均¥3,800と高価になりました。それに毎月リリースされる数は多くありませんでした。
私も、8枚程度買ってみましたが、そのうちの2枚は“SUPER CD”対応のCDプレーヤーが読まなくなってしまいました。
エステリックによる再マスタリングによるものは大間知さん(責任者)のセンスの良さもあって、評判は良いらしいです。
それにしても、ソフト面では、うまく行っているとは言えないようです。
もちろん、アナログ時代に匹敵、追い越すような名演はクラシック、ジャズ関係でも、なかなかないと言われています。
そうなると、完璧な仕上がりを期待できるセッション録音は費用がかかり、コンサートのライブソースが近年、ほとんどとなってしまいました。
オーディオファイルの欲求不満が残ります。

マルチメディアとは何だったのか?

CDが登場して、それが進化して、画像メディアになっていきました。
そうなると、オーディオ産業の生きる道は、2CHステレオから脱皮しました、映像をより効果的するサラウンド再生でした。
それにはAVアンプが必要になり、そのシステムは映像回路とサラウンド再生に(具体的には5.1ch方式)と複雑なアンプとなり、その製品化には4人程度のエンジニアが必要で、それなりに高価、大型になりました。
故障したら、通常の修理は不可能で基板交換方式にならざるを得ませんでした。
それでも、対米輸出を主体に、国内でも、トールボーイスピーカーにTV台を兼ねるスペースにサブ・ウーファを収納し、センタースピーカーと併せたホームシネマシステムが2~3年くらいの間、売れました。
経営に苦しいオーディオ産業を一時的に支えた状況でした。もはや、マルチメディアという言葉は聴けなくなりました。また、当時よりAV雑誌の関心は薄れました。

オーディオ産業は活路をどこに求めたのか?

その始まりはオーディオアクセサリー関連でした。
はじめは、スピーカーケーブルに始まりました。確かに、それまでのスピーカーケーブルはAC100Vケーブルを転用したに過ぎません。
高周波的に見れば、AC100V用ケーブルの特性インピーダンスは120Ωですから、高周波インピーダンスマッチングの面からミスマッチですが、オーディオ帯域の100kHzあたりでも問題ありません。
むしろ、新しいスピーカーケーブルが誕生したのは、ケーブルのDCRとか、ケーブルの銅純度が注目されました。
この分野でリードしたのは、前園(故人)さんが社長をされていたオルトフォンジャパンでした。
その後、この動きは全世界のピュア・オーディオにおける常識となり、通常の100VACケーブルを使う方は少なくなりました。
ソフト業界でも、マスタリングエンジニアたちもSPケーブルによるサウンド変化を認めています。
これは、オーディオ界において、大きなビジネス材料となりました。電源ケーブル、RCAケーブル、XLRケーブルとその種類は広がっています。
オーディオ評論においても、かっこうの材料となっています。
但し、どうしてサウンドが変化するのかは、明確な説明をする材料がありません。
また、スイッチング電源、コンバーター、携帯電話、スマホ、パソコン、等で、電源、空間はノイズだらけになっています。
いわゆる高周波ノイズがオーディオ機器に入り込まないようなアクセサリーも見受けられますが、かえって、音質が悪化することがあります。
理由はよくわかりません。
まだ、まだ、科学はわからないことが多いです。物理学者に言わせれば、科学的に真理を説明できるのは、せいぜい7%くらいと言われています。

とりとめもなく、書き綴ってしまいましたが、お読みいただければありがたいです。

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