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イシノラボ/マスターズ店長の連載

第1弾 日本オーディオ史

第85回 行方洋一さんの思い出

行方さんが亡くなったと知る

2022年5月10日過ぎ、50年来、お付き合いのあるI・KさんからTELがあり、“行方さんが亡くなったと出ているよ!”と。
さっそくパソコンで検索していると、関係者のブログで、亡くなったとの記事が書かれていました。
このところ、まったくお付き合いはありませんでした。
けれども、行方さんは我々がもっとも、やる気を出していた時代のオーディオ推進者だったと断言できるでしょう。

お付き合いの始まり

行方さんのお名前を最初に知ったのは、1970年代、ラジオ技術のカセット録音評でした。
確か、ご長男の名前を使って、“いくえ洋晶”のペンネームで録音評を毎月掲載されていました。
ラジオ技術の編集部に聞いてみると、東芝EMIのレコーディングエンジニアとのこと。
ちょうどそのころ、私は4CHQSシステムの開発チームに所属していたので、もしかして、お会いできるかも知れないと感じておりました。
そうこうしているうち、“渚ゆう子”のライブレコードが発売されており、買って聴いてみると、とてもパワフルでバリバリしたサウンドでした。
JBL4320で聴いてみると、さらに、気持ちよく聴き惚れました。
そして、渚ゆう子が好きになり、ちょうどそのころ生まれた長女に“ゆう子”と名付けました。

そのうち、QSレコードの普及にレコード会社に出向く仕事が出てきて、プロ用エンコーダーを担いで、各レコード会社を回り始めました。
東芝EMIにも行くことになりました。東芝EMIはそのころは溜池にあり、レコーディングスタジオもそこにありました。
そこで行方さんにお会いできました。いろいろと話がはずみ、渚ゆう子に話が及ぶと、“俺が録っているんだ!”と語るではないですか!
“彼女の声質は透明、微妙だから、ボーカルマイクも工夫して選んでいる!”とのこと。
無理かと思いましたが、渚ゆう子のサインも貰いたい!と恐る恐る伝えたところ、”いいよ!“頼んであげる!”とのこと、しばらくしてサイン入りのLPレコードが届きました。
私は何か、お手伝いしなければと思いました。

それから月日が流れて、3年後くらい?に渚ゆう子が新宿厚生年金会館でリサイタルをやることになったとのこと。
“何か、お手伝い?したい”と行方さんに申し出ると、“俺がPAとライブレコーディングやるから、協力して!”と言われました。
”まず、スピーカーはJBL4320を使いたい!備え付けのスピーカーではろくな音が録れない!2000人弱入るホールだから、2本ではちょっと音量に無理があるかな!
2本×2の4本使いたい!OK?“と聞かれました。ちょうど、山水のQS4ch開発用に使っていた最新の4320が4本ありました。
上司に伺いをたてると、“良いだろう!”とOKを出してくれました。
そのかわり、“搬入、セット、撤去はお前がやれ!他の人には頼めない!”と言われました。
当日、13時頃、会社の車にJBL4320を4本とBA-5000(300W)2台を積んで、厚生年金会館に向かいました。
大ホールのL/Rに4320を2本、縦積みにしてセット、脇にBA-5000を置きました。
BA-5000はバランス入力がないので、アンバランスに変換してもらい、PAサウンド用ケーブルに接続。
リハーサルが始まり、そのサウンドにびっくり、こんなにクリアでのびのびしたサウンドは聴いたことがなかったです(今だに、そう思います!)。
バックのオケのプレーヤーは、主として東芝EMIでカラオケを担当しているスタジオミュージシャンの面々(石川晶とカウントバッファロー)と、リサイタルが始まると、4320は渚ゆう子のボーカルとぴったり!澄み切った、そして、スカットとした、魅力あるサウンドを奏でます。
バックオケとのバランスもPAとして見事でした。さすが、行方さんです。

サンスイとの関係も深くなる

サンスイは、サンスイQSサウンドの開発促進、アドバイザーとして、当時、MJ編集長 小川正雄さん、行方洋一さんと顧問契約を結びました。
よくお二人で山水の試聴室に見えられて、QSサウンドを聴いて貰い、感想、アドバイスを頂きました。
当時、QS・VARIOMATRIXとネーミングしたセパレーション20dBを目標としたICを、日立半導体と共同開発していました。
ヒアリングして、少しでも不自然さがないように、回路構成、回路定数の検討に入っていました。
行方さんは、サンスイにプロ用AMPEXレコーダーがあったので、サブマスターを持参して、4CHソースにエンコード・デコードのヒアリング実験をよくおこないました。
そうこうするうちに、行方さんととても話が合うことが分かってきました。
まず、行方さんは土浦出身であったから、通学時、常磐線に乗っていて、SL(当時、まだC61牽引の列車は走っていた)にとても詳しかったのです。
私も、学生時には鉄道研究会に参加していたので、鉄道ファンとして話がぴったり合いました。
そのうち、行方さんが、“うちに来ないかい!?”と言ってくれました。
ちょうどそのころ、私は2人の幼女持ちであったので、“それでは、一家を挙げて土浦のお宅に行ってよいでしょうか?”と伺うと、行方さんは普段は東京での単身赴任、土浦の実家では、母上と奥さん、長男“洋昌クン”、長女“美絵チャン”の2人の子持ちでした。

お言葉に甘えて、日曜日に家族ぐるみで、車で千葉市から土浦へと向かいました。
行方さんの奥さんは音楽評論家、藁科雅美さんの娘さんで、東芝EMIに就職、そのとき行方さんと知り合い、結婚したと思われます。
結婚後、行方さんは多忙となって、東京での単身赴任になっただろうと思います。
行方さん宅に着くと、挨拶もそこそこ、2台の車で、霞ケ浦に案内してもらい、おいしい食事をごちそうになって、また、行方さんのオーディオ装置も視聴して、
子供たちは子供どうしで遊んで過ごし、夕方お別れして、帰宅の途につきました。
帰り際、行方さんは、“今度は泊まりに来なよ!”と言ってくれました。

土浦の花火大会に行く

土浦では、毎年10月第1週の日曜日、恒例の花火大会が開催されています。
行方さんから、“録音してみない!”と言われ、上司に伺ったところ、“日曜日だから、良いだろう”と言って許可してくれました。
会社の車使用もOKが出て、社内のエンコーダー、ウーヘルのレコーダー、マイクを積んで、出かけました。
行方さんの近くに行方さんの叔父さん宅(上村英二:行方さんがペンネームとして使っていた)があり、そこでは花火が良く聴こえるし、その音も霞ケ浦の湖面に跳ね返って、良い音が録れそうです。
この花火音をオーディオフェアのサウンドデモのソースに使う予定としました。
花火大会は22時過ぎに終わったので帰宅が難しくなり、“うちに泊まっていきなよ!”と言ってくれたので、一泊することにしました。
翌朝は早朝5時に土浦を出発。行方さんも東芝EMIに出勤です。
行方さんを乗せて、国道6号線をひたすら東京に向けて、走りました。
何とか、行方さんを東芝EMIに送り届け、私は9時前に会社にたどり着きました。
その年も、オーディオフェアでのサンスイ担当のサウンドデモ時間帯は、行方さんに司会・進行を務めてもらい、私は黒子に徹しました。
スピーカーは確かJBL4343を使ったと思います。

はじめは、会社にSTUDER A-80デッキがあったので、それを運び、いよいよ土浦の花火大会サウンドデモです。
エンコーダーを通してQSソースに変換、アンプはBA-5000をBTL接続して、各2KW出力です。
デモタイムは1分程度と短かったですが、花火の爆発時には会場のブレーカーが落ちてしまいました。
短時間なら実害なかろうと、ブレーカーをガムテープで動かないようにして再演、見事にすごい爆発音を披露できました。
当然、終了後ただちにガムテープをはずしたことは言うまでもありません。
さらに、行方さんに76cm2TRのデモテープを作って貰い、その最上級サウンドを皆さんに聴いて貰いました。
来場したお客様には凄い音と最上級のサウンドを聴いていただけました。

行方さん宅でのSL談義、オーディオサウンド、Nゲージを楽しむ

そんなことから、オーディオ、鉄道に話が合ってしまい、会うたびに、“また、泊りに来なよ!”ということを真に受けて、また土浦の行方さん宅に出かけてしまいました。
やはり、日曜日の午後、車で出かけ、夕方5時頃到着。
行方さんのオーディオルームは約12畳の洋間。
中央にはJBL4320(ホワイトエッジ)が置かれ、プリアンプ、パワーアンプはラックスタイルのパイオニア製がラックにセットされていました。
ラックにはオーディオ接続が自在に接続できるように、パッチシステムになっていました。
ラックタイプのサンスイQSD-1000もセットして、ヒアリングして、コメントを頂けるようにしました。
当然、行方さん宅のサウンドは最上級で、素晴らしいサウンドが楽しめました。
そして、行方さん宅には録音後のサウンド確認用に、マスターコピーテープがたくさん棚に置かれてあったし、ボツになったマスターテープ、特に、戸外録音、とりわけSL録音モノが多数ありました。
行方さんは当時、国鉄機関区に報道の腕章を付けて、SLの運転席に乗せて貰ったということです。
函館本線のC62(急行ニセコ)の重連、中山峠超えの貨物列車、常磐線C60の高速運転、九州、阿蘇山沿線のスイッチバックなど、一緒に聴き楽しみました。
おなかが空いたところで、家族の皆さんとお宅で夕食をごちそうになり、そのあとは、長男の洋昌君と一緒になって、Nゲージ鉄道模型を楽しむことに。
私は、若いころはHOゲージで、サイズが大きくあきらめた経緯があります。
実際、Nゲージは小さく、その割には精密にできていて、その走りは本物風でした。
駅やら、鉄橋、信号機、踏切、トンネルなどのパノラマは小さなサイズでも本物風でした。
あれこれ、楽しんで、お風呂に入れて貰い、ふかふか布団に包まり、その日は行方さん宅で眠りにつきました。
当然、翌日は早朝出発、前述と同じルートで戻りました(今から思うと、子供がまだ小さいのに、外泊を許してくれた妻に感謝です)。

行方さんとの仕事、それ風イベントの数々
録音会の開催

1970年代は2トラ38が注目されて、プログラムソースが無いのに、売れてきました。
TEAC、SONY、DENON、AKAI、さらに、パイオニア、JVC等が発売され、海外製REVOX HS-77等が出回るようになりました。
サンスイは、デッキ発売に踏み切ったものの不幸な出来事があって、販売は売りきれ終了となりました。
けれども社員で好きな方々が増えて、SONY、TEAC、等を買う方、器用な方はTRKの中古デッキを改造して2T38が回せるようにした方も少なくなく、数十人の社員はデッキを持つに至りました。
私はTRK339を持っていたものの重く、小型軽量のREVOX HS-77(中古)を入手していました。
“社員向けに録音会をやりたい!”というリクエストに対し、私は無謀にも行方さんにできないか?と相談、お願いしてみました。
“問題はミュージシャンだね!”、“ところで、どの程度の費用だせるの?”と言われて、仲間に相談すると、
それなら、“組合主催としてそこから費用を出そう!”ということになり、いくら?となると、“何とか¥10万なら出せる!”と言われました。
行方さんに“¥10万しか出せない!”と哀願すると、しばらくすると行方さんから、“¥10万で、女性ボーカルを含め11人編成の石川晶とカウントバッファローが特別に出よう!”言ってくれたとのこと。
本当に夢のような話です。
それに、マイクを立てられない方に、プロエンジニアによる録音ソースも送ってくれるということになり、
そのために、休日返上で、若手東芝EMIの吉田保(吉田美奈子の兄)エンジニアが来てくれるということになりました。
(無償サービス:おそらく、山水、私の協力に対する返礼というような“阿吽の呼吸”で、ことは進みました。)
録音会前の段取りには楽しい苦労をしました。

さて、録音会当日にきて、ミュージシャンたちにはびっくり。
カウントバッファローフルメンバー(11名)に当時、山水のQSコマーシャルソングを唄ってくれたフィメール若手ソウルシンガー“タン・タン”まで、
私服ではなくコンサート用ドレスを着て唄ってくれたのです。
一流のバンドとボーカリストで、レコーデイング・コンサートは盛況のうち終了しました。
熱心な方は自分なりにマイクを立てていましたが、やはり、全体のサウンドバランスはプロのエンジニアには到底及びませんでした。
いずれしろ、とても有意義で、記憶に残るイベントでした。今でも、レコーディングしたテープが手元にあり、楽しめます。

富士フィルムホールでもリハーサルイベント

行方さんはテープメーカーにも、けっこう影響力があったので、それなりに無理がききました。
スタジオミュージシャンとも言うべき、前述のカウントバッファローは、やはり腕を磨く(落とさない)練習の場が欲しかったようです。
行方さんは富士フィルムと掛け合い、ホール(500人収容程度)を1回/月、借りることができるようになりました。
当然、PAも必要なので、機材はオーディオメーカーが協力しました。
仕事に差し支えないように、確か、土曜日だったかも知れません。
パイオニア、山水等が主力となり、山水はJBLスピーカーとパワーアンプを持ち込みました(もちろん、山水側の主力は私です)。
アンプ技術部の好きモノも参加したいというので、一緒に協力しました。
彼等は、大音量再生時のパワーアンプの温度上昇を測定も貴重な機会でしたので、自動温度計を持参して、アンプの各部に熱電対モニターケーブルを取り付け、記録紙にその様子がグラフで見られるようにしたのです。
従来のトーンバースト試験に比べ、実地での貴重なデーターが副産物として得られました。

ミュージシャンも、観客(50人程度)がいるとやる気となり、けっこう頑張って、主として、ソウルミュージックを数曲、繰り返しおこないました。
特に貴重だったのは、レコーディングエンジニアの吉田保さんの妹さん(吉田美奈子)が、まだ無名に近い状態だった頃に、ここで唄ったことです。
とても才能豊か、将来性を感じました。
このイベントは1年近く続きました。

創価学会の録音に協力、立ち合う

行方さんから、またスピーカーとアンプを貸してほしいと連絡がありました。
聞けば、録音会場は千葉文化会館というではありませんか!上司の許可をとり、会場に駆けつけました。
コンサートホールは消防法改正により、木材を使えなくなりましたが、千葉文化会館はその規制以前の最後の木材が使われたコンサートホールで、
現在でもその響きは他のホールでは得られない良さがあります。
会場に行ってみると、すでに作曲者 団伊玖磨が見えていて、最終リハーサル中でした。
オーケストラ(読響)、コーラスと総勢300名上の大編成でした。
その音楽は宗教的であり、団伊玖磨さんらしい現代風でもありました(交声曲“元の理”というもの)。
コーラスは客席に陣取り、オーケストラはステージ上でした。

行方さんはマイクを16本以上使われ、16chのマルチchレコーダーが持ち込まれていました。
そして、セッション録音が開始されました。30分くらいの曲でしたが、やはり1日がかりになりました。
モニタールームに置かれたJBL4320は、かなり見事に響きを再現していました。
(もう少し、しっとり感が出ればよいと思いましたが、そうなるとTANNOYのカンタベリーが良いでしょう)
モニタールームでは、音の洪水!曲の部分、部分で、団伊玖磨さんはモニターサウンドを聴いてOKを出していました。
行方さんはクラシック専門ではないだけに、大作曲家 団伊玖磨さん相手に相当緊張してのレコーディングセッションでした。
夜になって、ようやく終了し、私は機材を会社の車に積み込み、自宅に帰り、早朝出発、会社には8時前に到着しました。
2か月くらい経って、行方さんからテスト盤を頂き、聴いてみました。
かなり良いと言えど、会場のモニタールームで聴いた凄いサウンドにはなりませんでした(それはレコードのDレンジでは困難と言うべきでしょう)。
さらに広がりを増すためにQSエンコードされて、レコード化されていました。

読響POPS録音に立ち合う

行方さんの提案かどうかはわかりませんが、読響が映画音楽を中心としたPOPSミュージックを演奏し、
同時に別スタジオのジャス・ソウルを得意としたミュージシャンを配置して、同期にさせるという企画が実現するようになったと行方さんから連絡がありました。
具体的には、その音源を使って、QSエンコードしたレコードを発売するということになります。
録音場所は当時、最も大規模なレコーディングスタジオとして、モウリスタジオ(旧毛利藩の上屋敷跡地)がありました。
大スタジオに読響が入り、2階の中型スタジオにスタジオミュージシャン(羽田健太郎さんもいたと思うが)が入り、相互をTVカメラで結んで、ミクシングして音源化するものでした。
曲目のアレンジは“すぎやまこういち”、“宮川泰”さんたちが担当されたと思います。

ミクシングエンジニアは当然、行方さんです。おそらく、マントバーニーサウンドを狙ったものだったのでしょう。
けれども、読響はクラシック専門ですから、そのようなストリングスサウンドは出せるはずもなく、その試みは面白いと思いました。
多次元録音に立ち会うことができたのは、私にとって貴重な体験でした。
この音源はQSエンコードされ、後述する“プロユース・レコード”にも加えられました。
音質確認用にサブマスターテープが今でもあり、時たま聴くことがあります。

大ヒット、プロユースレコードの先駆けとなる“フィメールボーカル”に関係する

1970年代、オーディオマニアが聴く音楽と言えば、クラシックであり、ジャズでした。
当然、オーディオ誌、オーディオ評論家が取り上げる音源は上述であり、POPS、歌謡曲はオーディオ機器のヒアリングには取り上げられませんでした。
けれども、実際のレコード産業はPOPS、歌謡曲の売り上げで成り立っていたのでした。
少なくとも、オーディオイベントで使用されることは皆無であったと言えましょう。
従って、録音技術者の名前で知られていたのはクラシックを担当していた若林さんくらいでした(ジャスでは菅野沖彦さん)。
行方さんは、POPS、歌謡曲録音においても“いい音”で聴けるようにと、いろいろと努力していました。
段々とオーディオ産業が盛りあがると、オーディオメーカー側から、テストレコードと作って欲しいとの話が持ち上がってきました。
コロムビア、JVC等からもいわゆるテストレコードが作られましたが、聴くにはあまり楽しくない内容でした。
東芝は“AUREX”ブランドでコンポオーディオを販売していたので、東芝EMIに作って欲しいとの要請があったと聞かされました。

当然、この話は行方さんに回ってきて、そこで作ったレコードは“あなたのステレオ装置をチェックしよう!”というものでした。
片面は周波数チェック等音響的な内容に限られ、片面は音楽内容で、その内容は行方さんに任されたようです。
行方さんは自分が録音したソースから、POPSミュージック、SLサウンド、現代音楽等から選定し、カッティングにも付き合い、完成させました。
とりあえずオーディオ販売店に配ったところ、大好評で、その年のオーディオフェアの各ブースからこのサウンドが流れていました。
この結果に、行方さんは会社に“プロユースレコード”をシリーズで発売しようと提案したようです。売れれば意見が通るのが会社です。
この企画は行方さんに任されました。私にも相談されました。
私は女性歌手の音源のほうが良いと言いました。その根拠は、聴くのは100%男性だから。
また、ジャケットはオーディオ的なものを入れたほうが良いと言いましたが、結果的にプリント基板と女性歌手の2重写し風にできあがっていました。

そして、レコードタイトルは当時としてはユニークな“フィメールボーカル”となっていました。
曲目は当時、大人気の“スサーナのアドロ”、この曲以外はすべて行方さんの録った音源をマスタリングし直し、
76ch/2TRのハーフスピードカッティングで作ったレコードになりました。
このレコードは爆発的なヒットとなり、クラシック、ジャズ以外にも良い音が聴けるんだという認識が定着しました。
私は、渚ゆう子の“雨の日のブルース”が秀逸と思いました。

行方さんは付属の資料に、録音データーを使ったマイク、楽器定位など詳しく記述してありました。
その中で、“雨の日のブルース”の録音は、自分としてベストに近い、と言う内容が記されていました。
そして、プロユースレコードはシリーズを重ねることになり、行方さんはプロデューサーに昇格しました。
そうなると、録音現場から少し遠のくことになり、手持無沙汰の感じでした。
バイトとしてのレコーディングで、“木綿のハンカチーフ”は確か行方さんの録音だったと思っています。

その後のお付き合い

私はアンプの開発・設計に多忙になって、お付き合いは少なくなってしまいました。
やがて、行方さんは東芝EMIを離れ、独立されました。
その後、“ビデオサンモール”の副社長としてスカウトされ、数年、レコーディングエンジニア兼経営者として活躍されました。
“ビデオサンモール”には何度か伺いました。
このスタジオは完全デジタルコンソール“SSL”が導入され、木下モニターも設置されていましたが、
そのサウンドの新鮮さはアナログコンソールより薄れていたように感じ、好きになれませんでした。
そして、また、行方さんはビデオサンモールを辞し、フリーレコーディングエンジニアとして活躍されました。
そうして、亡くなる直前まで活躍されました。行方さんは録音界の“レジェンド”そのものでした!

私は行方さんのおかげで貴重な人生の財産を得られました。
私もサンスイを離れ、会社を作ったり、個人事業者してマスターズアンプの設計・製作・販売を始めて21年が過ぎました。
何とか、オーディオ界の片隅で頑張って生きたいと願っています。
ここまで読み続けていただき、感謝致します。

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