イシノラボ/マスターズ店長の連載
第1弾 日本オーディオ史
第52回 アンプ量産する困難さ。日夜、奮闘するが・・・。
提携・援助してくれた会社で量産する
仲間6人で設立した会社は、事務所を東中野に借りて、何とか動き出した。 生産委託した会社は、オーディオアンプ生産には全くの素人であったので、前回で記したように、資材面からのスタートであった。
ようやく、部品材料が入ってくるめどがついてきた。提携した会社は、プリント基板に部品を自動挿入する加工会社なので、プリント基板を用意し、CR,半導体部品をプリント基板に差すことは自動機でやってのけた。さらに、挿入した基板が動作するかどうかをチェックする自動テスターもあった。
そのあとは、プリント基板を半田付けすることであった。これも自動半田漕でやれた。
あと、細部の加工は、リード線,大型部品,特殊部品を半田付けすることであった。
当時は、このような下加工をする業者がいて、内職でやってもらい、それを引きあげて完成させ、組立会社に納入すれば、組立会社はベルトコンベアを用意して、組立ラインを用意する。(零細下請け会社があって、これらが当時(1980年代)の地方の方の生活を
ヘルプしていたかたちであった。近年では、これらはほとんど中国をはじめとする海外で生産され、地方の雇用の厳しさにつながっている。)
我々スタッフの中で、N・Yさんは山水埼玉工場で生産現場のチーフであったし、提携会社にはサンスイOBのK・Kさんがおられて、Kさんは生産技術の大ベテランであった。K・Kさんは、毎日10時過ぎまで一緒に働いてくれた。
この方達の活躍で、組立ラインに流す手順(組立指導書)を作成して、ラインの班長さん(おばさん)に説明して、初めはプリプロ生産として5台程度を流し、我々スタッフが組立作業者となって製造してみた。そこでいろいろな問題点が見つかり、解決するのは結構大変であった。特に、パワーアンプは4ch,3ch,2ch動作と切り替えが出来る(これが売り)機能の検査チェックが面倒であったし、作業者の理解を得ることは大変であった。
しばらくは、我々スタッフは検査・チェックの作業員をやることとした。
慣れない作業員(おばさん達)、我々スタッフは、最初はうまくいかず、スムーズに流れるというわけにいかなかった。私は千葉市からこの工場に通っていたので、事務所に3泊(週)することは仕方がなかった。
それでも少しずつ流れ始め、完成品が出来上がっていった。けれども、当初見込んだ組立工数では流れず、大幅な工数超過であった。それをカバーするのは我々スタッフで、残業時間でカバーするしかなかった。
しっかり仕事をやっている実感はあったが、やはり、苦労しているな!との実感もあった。しかし当時は若かったので、それほどいとわなかった。
それよりも、売り上げないと資本金を食いつぶすばかりであるから、頑張るしかなかった。
当時、サンスイ工場での人件費の高騰は異常で、¥70/台・分であったから、海外向けのレシーバーは徹底的に材料費を落とし、組立時間も削減していた。
この提携会社では、¥28/台・分程度であったから、組立工数オーバーは何とかなった。
今にして思うパワーアンプとコントロールアンプの技術的内容
ここで製造したdbx BX−3は、ブリッジ動作も可能にしたパワーアンプであった。ブリッジ接続時は、通常入力をバランス変換する回路を搭載するが、なるべく回路ユニットを少なくしたいと考えたので、ブリッジ接続時は、COLD側のアンプはHOT側のアンプ出力を増幅度分、NFB回路で下げて、その入力をCOLD側アンプの反転入力に入れて、反転アンプとして動作させた。
このようにすれば、動作切り替えはスイッチで切り替えることが出来た。
但し、ブリッジ接続時にはパワーが出過ぎるので(8Ωスピーカでも、4Ω負荷に各アンプがそうなるので)、4Ωスピーカのときは電源電圧を低くして、パワーを制限した。
そうしないとUL等の温度試験規格にクリアしなくなるからであった。
アンプ増幅回路は、2段差動+差動pp構成で、これも今にして思えば、APIモジュールにもAU−607/707の回路にも共通点があった。
そのサウンドは、なかなか迫力がありパワフルであった。また、工業デザインもサンスイ勤務のデザイナー(その方も、ほどなく山水を辞していった)の作品で雰囲気があり、特に、ブラックボディのなかに大型パワーメーターがあって、両脇にはサイドウッドを付けて、パワフルさのなかにやさしい雰囲気があった。
それしても、モード切替する2,3,4chパワーアンプは、当時、他にない特長を持っていて、米軍関係には評判が良かった。
構造的には、金型を極力抑えた設計で、ヒートシンク、フロントパネル、の金型費の計上で済んだ。
コントロールアンプはドルビーAV回路を搭載しているので、ドルビーライセンス料をしっかり取られるし、その認定も日本の代行会社・極東コンチネンタル社に、しっかり・うるさくチェックされた。
このコントロールアンプの音質はIC・OPアンプを採用しているので、特に、チューニングはやりようがなく、ICの選択しかできなかった。けれども、嫌味のないサウンドで問題はなかった。また、内部の配線はマルチケーブルで行っていたので、組立時の半田付けは不要になった。採算的にも悪くはなく、利益がでる製品となった。
検査・出荷出来た!
約束の納期になってきた。プリプロを経て初ロットの生産に入り、商社側からは早く立ち会い試験をおこない、米軍に収めたいという。
何とか台数を揃えて、商社からの検査員Tさん(現在もアクシス社で活躍)、Mさんの立ち会いにこぎつけた。
合格基準は、とりあえず10台抜き取って、重欠点があればロットアウト(やり直し)であった。かたずをのんで、開梱し、アンプを出して、電源を接続し、音を出す、各機能をチェックしてOKかどうか、また、外観に傷がないか等、ひやひやしながらの検査立ち会いであった。幸い、初ロットは重欠点がなく、梱包方法等の改善を要望されて発送がOKとなった。
工場にトラックが到着して、トラックには、我々も一緒になって積み込んだ。約100セットくらいであったろうか? トラックを見送る視線が涙で曇ってきたのを今でも覚えている。
その後の立ち会い検査でロットアウトもあったが、何とか出荷は始まっていった。
商社検査員のTさん、Mさんとは大変友好的になり、大変その後もお世話になった。
どこの場合にでも、人とのつながりが大事であることは、重要であった。
評論家 故 長岡鉄男さん宅に伺う
dbx製品を、米軍だけでなく一般市場にも拡販するようにしたい、という商社側の意図を受けて、次の商品を考え始めた。というのは、この商社に山水OBのYさんが入社して、日本のオーディオマーケットで販売する手はずが整ってきていたのだ。
BX−3,CX−3も国内市場で売り出した。評判は悪くはなかったが、やはりノイズリダクションのdbxのイメージが強かった。
影響力ある評論家さんにアプローチできないか?という商社側からの要請があった。
故、金子英男さんも考えたが、金子さんは部品選択に厳しいので、このアンプは細部までそのような考慮は払っていないので、見送ることにした。内心は音質の良い日立の大型ブロックケミコンを採用しているので、マッチすると思ったが、金子さんはAVには興味がいから、コントロールアンプについては受け入れてくれないだろうと考え、見送った。
さて、其の頃、長岡さんは大きなAVルームを建てていたから、AVコンセプトは受け入れてくれるだろうと思った。久しぶりに伺うと、例の通り、ぶっきらぼうな応対で淡々として話を聞いてくれ、音も聴いてくれた。
また、モニター料は予算がないので、手土産持参するしかなかった。
それにもかかわらず2時間は応対してくれた。評価は悪くなかったが、長岡さんはこのアンプを推薦してくれることはなかった。よく考えると、長岡さんは国産優先主義であったことを私が忘れていたことであった。結果的には、アンプの出来栄えについては自信が持てたが、販売促進活動は失敗したと言って良いだろう。
(長岡さんは、後年、70才の前半で他界されたのが惜しまれる。長岡さんはずっと喘息もちで、心臓に負担がかかるのを心配していたが、現実になってしまった。)
次のdbx製品を作る!
BX−3,CX−3も国内市場で売り出した。評判は悪くはなかったが、やはり、ノイズリダクションのdbxのイメージが強かった。
そこで、次は当時のサンスイではまだ製品化していなかったMOSFET採用のパワーアンプの開発を商社側に提案した。商社側は“よかろう”と言うことで、アンプの仕様を考えてみた。もちろん、金型費を使わずにBX−3の内容を変えて、製品化することが製品化の早道であった。そこで、プロ用パワーアンプを提案した。
それは、BX−3のように、2ch,3ch,4chと動作を変えるのは同じとして、デバイスを東芝のオーディオ用MOSFET 2SK405,2SJ115を使うことであった。これらのMOSFETをパラプッシュプルで使うと、120W×4のパワーアンプが出来る。ブリッジ動作であれば、250W×2以上のパワーが取り出せた。
モデル名は、躊躇なくdbx4320とした。これは私の大好きなJBL4320と同じネーミングであった。フロントマスクはブラックもアルミスクラッチ加工、パワーメーターにはICによるLED点灯方式とシンプルにした。
回路はBX−3とほぼ同様としたが、あえて、DCアンプ方式とせずACアンプ方式とした。このことは、DCドリフトよりもACアンプにすれば、低域になるにしたがってNFB量が増えて、ダンピングファクターが大きくなり、超低域での歯切れが良好になるとの考えであった。入力は当然、バランス対応であった。
こうして出来上がったdbx4320は、ブラックマスクで、19インチ、EIAラックマウント仕様で、格好が良かった。
サウンドも良好で、のちに紹介する本田潤さんも気に入って、JBL4320と組み合わせて、今でも愛用していると聞いている。
但し、生産は200台限りで終わった。利益がそれほど上がらなかったのが原因だったかもしれない。
けれども、このアンプは今でも私のお気に入りのパワーアンプであり続けた。
このdbx4320が生産完了したあと、BOSE社から1990年1月に600SR(¥320,000)というパワーアンプが発売され、このアンプの格好・仕様はdbx4320にそっくりであった。
私としては、BOSEに真似されることは光栄であった。当時、BOSEにはサンスイOBの故O・Yさんが活躍していたし、私とO・Yさんとは友達であったから。
600SRは、中規模のSRには使いやすかったと聞いている。このアンプは日本製であった。
dbxブランドスピーカーを作る!
私がスピーカの設計をやっていたのを根拠に、dbxにスピーカの商品化を提案した。普通のスピーカではなく、AV用サブ・ウーファの提案であった。
その内容は38cmウーファを50リットル程度のキャビネットに入れて、38cmウーファの前面を円形の板で囲うことであった。このシンプルな構造は、スピーカ振動版の前に音響抵抗を置くことになり、高域カットフィルターになった。
提案すると、それならやってみろ!ということで、商品化がOKとなった。
まず、ウーファは懇意していた当時の“タモン”(現在は名称を変えて、越谷市で健在)に頼んだ。コーン紙は最上電機だったから、JBLのコーン紙と同じものが採用できた。
エッジはウレタンとした。要は、JBL38cmウーファそっくりさんが出来た。
問題はキャビネットであった。フロントグリル枠は、サンスイ時代のよしみで、組子を作っていた塩尻の二木製作所という木工工場にコンタクトを取り、冬の寒い中、塩尻峠を超えて車で訪問した。10年ぶり以上で訪問してみて、様子はすっかり変わっていた。
もう組子の生産がゼロで、神棚製作が主力という。何とかヒノキの無垢材でグリルを作ってくれないかと頼んでみたら、しばらく作ってないがやってみましょうと引き受けてくれた。
グリルの表は発砲ウレタンで、高音を吸収し、かつ、ある程度格好良いものとした。
200台の生産であったが、きちんときれいに作ってくれた。
次の問題は、キャビネット本体であった。さて、どうしたものかと、サンスイの掛川事業所でスピーカ設計しているFさんに連絡すると、静岡県の藤枝製作所を紹介してくれた。
その会社に頼み込んだ。数の問題(少なすぎる)があったが、何とか製作はOKとなった。
スピーカキャビネットの生産は装置産業であり、合板に塩ビシートを張り、Vカットをおこない、高周波接着工程を自動化ラインでおこなわないと採算が取れない状況であった。
この会社の幹部といろいろお話したが、国内生産では採算が取れないから海外生産に踏み切る方針、とのことであった。このころ(昭和60年代)ですでに、もう国内産業の空洞化は始まっていた。
お読みくださってありがとうございます。次回もよろしくお願いします。
2012年7月7日掲載
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